ポーランドの計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 07:21 UTC 版)
ポーランドの防衛計画、暗号名「西方 (Zachód)」はポーランド・ドイツ国境に直接に兵力を展開するという内容である。これはポーランドが他国から侵略を受けた際に、イギリスがポーランドに対し軍事的援助を行うという約束を元に立てられた計画である。さらに、ポーランドにとって最も価値のある天然資源、産業、そして人口の多い地域が西部国境付近(シレジア地方)に集中しているため、ポーランドの政策はこれらの地域を防衛することを主眼としていた。 西方 (Zachód) 計画はポーランド陸軍を自国領の奥深くに撤退する余地を与えたが、撤退は川(ナレフ川、ヴィスワ川、サン川)の付近に準備された場所から後方へとゆっくりと行われなければならなかった。うまくいけばこれによって、ポーランドは軍の動員完了までの時間稼ぎをし、「西側同盟諸国」が約束どおりの攻勢をかけた時に自軍も大規模な「反転攻勢」にかけられるはずであった。 ポーランド軍にとって最も悲観的なケースとなる「退却戦計画」は、サン川の後方から自国領の東南部地方への撤退と、時間稼ぎの長い防戦(ルーマニア橋頭堡作戦)を含むものであった。 このポーランドの計画は、同盟国がポーランドと結んだ相互援助条約を遵守して、すみやかにドイツに対し攻勢をかけることを前提としていた。しかし、実際にドイツのポーランド侵攻作戦が行われている間、フランスもイギリスもドイツを攻撃する計画を立てていなかった。しかしポーランド政府はこの両国の計画について知らされておらず、ポーランドの全ての防衛計画は西側同盟諸国の迅速な救援行動への期待の上に立てられていたのである。 ドイツによるポーランド侵攻の間、ポーランド軍は非常に広大な国境線に薄く引き伸ばされて配置され、コンパクトな防衛線と有利な防衛配置をとることができず、補給線も充分守られずに、しばしば機械化されたドイツ軍に包囲される結果となってしまった。ポーランド軍のおよそ3分の1はポーランド回廊とその周辺(ポーランド西北部)に重点配備されたが、彼らは東プロイセンと西方からの敵により孤立させられ、さらに挟撃の危険に晒された。南部では、進撃するドイツ軍の主要進撃路に対し、ポーランド軍は薄く広く配置されていた。同時に、ポーランド軍の別のほぼ3分の1は前線から離れ、エドヴァルト・ルィツ=シミグウィ元帥の指揮下に集結したまま国土の中北部、ウッチ市とワルシャワ市の間に残されていた。前方に集結したポーランドの部隊は大部分が敵の動きに遅れをとり、戦う機会を失ってしまった。ドイツ軍と違い、動員途中で装備の整っていなかったポーランド兵の多くは徒歩で移動せざるをえず、後方の防衛線まで移動することができず、侵略者の機械化部隊が国内に展開する前に適切な配置がなされなかった。
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