ポーランドへの進撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 07:44 UTC 版)
「バグラチオン作戦」の記事における「ポーランドへの進撃」の解説
中央軍集団を撃破しミンスクを確保した第1・第2ベロルシア方面軍は、バラーナヴィチ付近で装甲部隊の機動防御を受けるものの、休むことなく第二段階の進撃を開始し、7月13日までには最前線がイドリツァ-ビリニュス-ピンスクのラインに到達、7月18日にはロコソフスキーの第1白ベロルシア方面軍に属するアレクサンドル・ルチンスキー中将の第28軍が、大戦以前の国境線だったブレスト・リトフスクを占領し、ブーク川を渡ってポーランドに入った。28日にはカウナス-ルブリン線に達し、さらにヴィスワ川のブーワビ、マグヌシェフ、サンドミエシュに橋頭堡が築かれる。8月初旬には、モスクワ防衛の殊勲者ミハイル・カトゥコフ大将の第1親衛戦車軍、スターリングラードを守り抜いたワシーリー・チュイコフ大将の第8親衛軍、ポポフ中将の第70軍など精鋭部隊が、ワルシャワ東方20kmのヴィスワ川東岸まで進んだ。しかし、双方による鉄道施設や橋梁など交通路の破壊と急速な進撃のために赤軍は補給の限界に達する。また、ドイツ中央軍集団も後退に成功した兵力の再編と増援によって強い阻止線を構えたため、ようやく戦線は膠着し、ここに作戦は大成功のうちに終結した。 赤軍は5週間で700キロ近くも前進し、ドイツ軍のお株を奪う縦深攻撃を成功させた。短期間にドイツ側の発表でも25万人の戦死者と11万を越す捕虜を出すという大打撃を与え、独ソ戦に事実上の決着をつけた戦いといえる。なお、この作戦の驚異的な成功は、冷戦下の西側世界で大いなる脅威として記憶されることとなった。
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