ポーランドへの派遣と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/20 15:13 UTC 版)
「ヴァシーリー4世」の記事における「ポーランドへの派遣と死」の解説
1611年10月、ポーランドのヴワディスワフ王子を新ツァーリとして推戴するため、ワルシャワへ派遣された使節団(団長はフィラレート)に加わり、29日に国王ジグムント3世と謁見した。 しかし、その際、ヴァシーリーはフィラレートとともに捕虜となって抑留されてしまい、翌年9月ワルシャワ郊外ゴスチニンで死んだ。 ヴァシーリー4世の退位後、ロシアでは1610年から1613年にミハイル・ロマノフが即位するまでの3年間、ツァーリ不在の、いわゆる動乱時代における「空位期間」が続いた。
※この「ポーランドへの派遣と死」の解説は、「ヴァシーリー4世」の解説の一部です。
「ポーランドへの派遣と死」を含む「ヴァシーリー4世」の記事については、「ヴァシーリー4世」の概要を参照ください。
- ポーランドへの派遣と死のページへのリンク