ポタワトミー
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「ジョン・ブラウン (奴隷制度廃止運動家)」の記事における「ポタワトミー」の解説
ブラウンと自由州の開拓者達は、カンザスを自由州の仲間に組み込むことについて楽観していた。しかし、1855年遅くから1856年早くにかけて、カンザスを奴隷州にするために奴隷制度擁護派の者が進んで法を犯すことも辞さないでいることが分かってきた。ブラウンはテロリズム、不正行為さらには破壊的な攻撃が、当時「ボーダー・ラフィアンズ(英語版)」と呼ばれていた奴隷制度擁護派の明確な日程に入ることになると信じた。1856年の雪が溶けた後で、奴隷制度擁護派はカンザスを自分達の側に付かせるための活動を始めた。ブラウンは1856年5月21日に保安官に率いられた一団が新聞局とホテルを破壊した「ローレンスの破壊」で特に心を揺り動かされた。一人の男が殺されたが、それはボーダー・ラフィアンズの者だった。5月22日に合衆国議会で起こった反奴隷制派の上院議員チャールズ・サムナーに対するプレストン・ブルックスの鞭打ち事件もブラウンの怒りを掻き立てた。これらの暴力行為の後に奴隷制度擁護派の新聞で賞賛の声が続いた。「無資格の主権者」のB・F・ストリングフェローのような記者は、奴隷制度擁護派が「北部の侵略を撥ね返し、カンザスを奴隷州にすることに決めた。我々の川は犠牲者の血で覆われ、奴隷制度廃止論者の死骸が領土内に溢れて病気の元になるだろうが、我々の目的を阻止させはしない」と宣言した。ブラウンは、奴隷制度擁護派の暴力にも怒りを覚えたが、反奴隷制度派や自由州の開拓者の弱く臆病な反応を見たことによっても怒りを感じ、「臆病者、あるいはそれ以上だ」と表現した。 伝記作者のルイズ・デカロ・ジュニアは、ブラウンの最愛の父親オーウェンが1856年5月8日に死に、ジョン・ブラウンとその家族がほとんど同時に父の死の知らせを受け取ったことを示す書簡があることを指摘している。ブラウンがその息子達や近くにいる自由州の開拓者達の快適な生活のために抱いた真の関心は、特にローレンスの破壊以後、奴隷制度擁護派の全面的な暴力活動を示す予兆が送られているように思えたことだった。ブラウンは近くに宿営している「ラフィアンズ」を調査し、ブラウンの家族が攻撃の標的にされていることを知り、さらにそのラフィアンズと結託し支援している奴隷制度擁護派の隣人に関する信頼に足る情報も掴んだ。奴隷制度擁護派の男達は必ずしも奴隷を所有していないが、ドイル家の者(犠牲者のうちの3人)の場合はカンザスに入植する前に奴隷狩りを行っていた。サーモン・ブラウンによれば、ドイル家の者達が拘束された時、マハラ・ドイルはその夫の「いたずら」がこの玄関先での攻撃をもたらしたことを認めた。これはブラウンの攻撃が現実の自分達の生き残りのために行われたことを意味している。 ブラウンは通常、ローレンスやサムナーの件で報復をしようとし、自由州の者達が暴力的な仕返しもできるのだということを示して奴隷制度擁護派を脅そうとしたと考えられている。奴隷制度擁護派のテロリスト達が自由州の者達をどの程度襲おうとしていたかについてははっきりと意見が分かれている。ジョン・ブラウンとその息子達、オリバー、オーウェン、サーモン、フレデリック、および義理の息子のヘンリー・トンプソン、さらに2人の自由州の開拓者達は、危険が迫っているという判断を下した。彼らがこのリスクに対抗するためにカンザスに行ったという者もいるが、ブラウン家の者達は開拓者として入ったのであり、勿論テロリストの脅威に対するような武装はしていなかった。ジョン・ブラウンは好戦的な態度でカンザスに入ったが、1855年に書いた手紙では、当初は自由州側が住民投票で勝てると楽観していたことを示唆している。ブラウンの「銃には銃で戦う」ことと「奴隷制度擁護派の心に恐怖を与える」という決断は、奴隷制度擁護派のテロリズムという現実によってのみ固められた。ブラウンの家族の安全を守るという考えは最優先であった。ブラウンの行動は他の自由州の男達がブラウンとは共に行動しない、殺人行動に加担しないと選択したことで、急かされることになった。ブラウンの好戦的ではない息子達、ジョン・ジュニアとジェイソンは父や兄弟の刀を研いだが、家に残る選択をした。
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