ホーリネス牧師時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/02 15:58 UTC 版)
ホーリネス教会で直接献身をするために聖書学院に入学する。卒業直前に1926年(昭和4年)日本ホーリネス教会中田重治監督の長女である中田陸奥と結婚する。同年、聖書学院と同時に、ホーリネス教会の奈良教会の教師として就任する。 一方、父邦治は1926年本協同基督教会に入り、戦前から戦後にかけて日本アライアンス教団の指導者として活躍する。 大江捨一は、滋賀県大津市、長崎県長崎市、岡山県津山市、東京府の日本ホーリネス教会の牧師として活動する。 1929年3月の父邦治が日本ホーリネス教会に転入し、ホーリネスの年会で柏木聖書学院の教授に任命された。また、弟の大江信も副舎監に任命された。 1933年(昭和8年)には大江捨一・陸奥夫妻に大江寛人が生まれる。
※この「ホーリネス牧師時代」の解説は、「大江捨一」の解説の一部です。
「ホーリネス牧師時代」を含む「大江捨一」の記事については、「大江捨一」の概要を参照ください。
ホーリネス牧師時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:09 UTC 版)
1917年、聖書学院の修養生であった時に、きよめが分からなくなり、大島行きの船にのり、大島で無人のぼろ小屋に住みながら自殺をしようと考えた。大島で伝道をしていた日本ホーリネス教会伝道者である安部千太郎の使いが、安部の命により羽後を安部のもとに連れて行った。安部に村はずれの共同墓地に連れて行かれそこで安部より自我に死ぬということを教えられ、きよめを悟った。その時、「賛美歌もって主に仕えよ」という御声を聞いて音楽伝道への献身を志した。 その後、復学し聖書学院を卒業する。1918年に日本ホーリネス教会の牧師になる。 1919年10月より姫路で開かれた山陽修養会で、父の恩師ルーベン・トーレーの説教を聞きに行った時、トーレーから勧められて、ロサンゼルス聖書学院(現在の、バイオラ大学)に留学することになり、トーレーと同じサイベリヤ丸で渡米した。1919年ロサンゼルス聖書学院の合唱隊に参加してメサイアを歌う。1920年にアメリカで東洋宣教会・北米ホーリネス教会の牧師になる。父・重治が渡米した際に、シカゴの教会で共にメサイアの演奏を聞く。父・重治はメサイアに深い感銘を受け、それがホーリネス・リバイバルの原動力になる。 1921年4月、中田重治は羽後に、ムーディにとってのアイラ・サンキーのようになって欲しくてシカゴ音楽専門学校で音楽を学ばせた。父・重治も同伴していた。 1921年9月、帰国途上ロサンゼルスの北米ホーリネス教会の最初の受洗式に出席した後、父と共に帰国。1923年にホーリネス運動のために編集されたリヴァイヴァル聖歌を出版する。 1927年8月28日、アメリカのインディアナ州ワイノナで今井朝子(後の中田あさ)と結婚して、1928年6月11日には長女純が誕生する。
※この「ホーリネス牧師時代」の解説は、「中田羽後」の解説の一部です。
「ホーリネス牧師時代」を含む「中田羽後」の記事については、「中田羽後」の概要を参照ください。
- ホーリネス牧師時代のページへのリンク