ホーリネス運動への参加
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「オズワルド・チェンバーズ」の記事における「ホーリネス運動への参加」の解説
ダヌーン大学で教鞭をとっている時期に、ペンテコステ祈祷連盟の創設者兼顧問弁護士であるリチャード・ハリスに影響を受ける。その際、F.B.マイヤーに説教で聖霊について聞き、彼は聖霊のバプテスマを求めて祈った。1905年にハリスはチェンバースを「特別な力を持つ新たな説教者」として紹介した。同組織での活動中、チェンバーズは日本のホーリネス活動家中田重治と出会う。彼によって世界宣教に興味を持ったチェンバーズは、翌年中田と共にアメリカ合衆国経由で日本へと出港した。1907年、チェンバーズはオハイオ州シンシナティにあるホーリネスの教育機関ゴッズ・バイブル・スクールで半年間教え、その後チャールズ・カウマンと共に日本で数ヶ月間を過ごした。また、日本滞在中に柏木聖書学院を訪問した。 1907年の年末にイギリスに帰国したチェンバーズは、ホーリネス運動が異言をめぐって対立し、新しい教派を設立するかどうかで分裂していることを知った。彼自身は異言を否定しなかったが、聖霊のバプテスマを既に受けた人々からは批判された。 1908年に再度米国を訪問。自身がよく知る友人の娘であるガートルード・ホッブス(愛称:ビディー)と出会い、1910年5月に結婚した。そして、1913年5月24日に長女キャスリーンが生まれる。妻ビディーは1分間に250語を速記する能力を持っており、結婚前からチェンバーズの説教や授業を記録していた。また、1907年から1910年の間、ペンテコステ祈祷連盟の巡回伝道者と代表を務めた。
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