ホーリネス破門時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:09 UTC 版)
1931年4月、ホーリネス・リバイバルの最中に父・重治から、「流れに添わぬ」という理由でホーリネスの退会を命じられ、聖書学院を去る。義母あやめとの確執が原因であったと言われる。その後、神経衰弱を病む。その頃、大館町の町長より羽後に秋田犬が送られてきた。羽後は毎日散歩に連れ出すようになり、徐々に健康を回復したので聖歌の編纂に取り組み、ついに昭和7年版の「リバイバル聖歌」を編纂を完成させることができた。 1932年に東京ヴォランティア・クワイアを指導しヘンデルのメサイアを公演する。以降、11年間メサイアの公演は続けられ、メサイアの中田として知られるようになる。 次第に父・重治との確執は深刻化し、重治からは戸籍上でも親子の縁を切られる。しかし、1939年の父と義母の死去の際には、羽後は両親と和解することができた。 1943年、東京ヴォランティア・クワイアが解散する。1944年には国内でのメサイアの演奏は不可能になったが、戦時下にあって元団員を集めてJOAKからの海外放送を聞きながら継続する。
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