ペン・セントラル鉄道 1968年 - 1976年
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「ニューヨーク・セントラル鉄道」の記事における「ペン・セントラル鉄道 1968年 - 1976年」の解説
1968年2月1日、ニューヨーク・セントラル鉄道はペンシルバニア鉄道に吸収され、新しいペンシルバニア・ニューヨーク・セントラル・トランスポーテーション・カンパニーを設立し、のちにペン・セントラル・トランスポーテーション・カンパニー(ペン・セントラル鉄道)と改称し、ニューヨーク・セントラル鉄道のアルフレッド・パールマンが社長に就任した。ペン・セントラル鉄道は、1969年に州際通商委員会に要求されて損失の大きなニューヨーク・ニューヘイブン・アンド・ハートフォード鉄道を合併させられたことで、急速に債務の負担が増大していった。これに加えてエリー・ラッカワナ鉄道の前例と違い、正式な合併計画が策定されないままに場当たり的なやり方で合併が処理された。両社の競争的な企業文化、労働組合の関心、互換性のない運営方法・コンピューターシステムなどが合併成功への希望を打ち砕くことになった。これに加えて、収益性があるように見せるために、パールマンは会社の準備金を株主に配当として支払うことを承認した。にもかかわらず、1970年6月21日、ペン・セントラル鉄道は破綻を宣言し、その当時までのアメリカ合衆国で最大の企業倒産となった。倒産保護の下、ペン・セントラル鉄道の他の鉄道に対する債務の多くは凍結され、一方でほかの鉄道会社のペン・セントラル鉄道に対する債務は凍結されなかった。これにより、すでに脆弱になっていたほかの多くの北東部鉄道会社を破綻させるきっかけとなり、エリー・ラッカワナ鉄道、ボストン・アンド・メイン鉄道(英語版)、セントラル・レールロード・オブ・ニュージャージー、レディング鉄道、リーハイ・バレー鉄道などが破綻した。 ペン・セントラル鉄道は、アメリカ合衆国で民間企業による旅客鉄道輸送の最後の頼みの綱であった。倒産に対応して、リチャード・ニクソン大統領は1970年鉄道旅客輸送法に署名し、国有化され政府所有で補助金を受ける存在であるアムトラック(全米鉄道旅客公社)を発足させた。1971年5月1日、アムトラックはアメリカ合衆国におけるほとんどの地域・長距離都市間旅客列車の運行責任を引き継いだ。アムトラックはまた、最終的にはほぼ電化されておりボストンとワシントンD.C.を結ぶ北東回廊の所有権を引き継いだ。これは主にペンシルバニア鉄道とニューヨーク・ニューヘイブン・アンド・ハートフォード鉄道から引き継いだ。ペン・セントラル鉄道およびその他の会社は倒産した状態でさらに5年間通勤輸送の運営を義務付けられ、最終的に新しく設立されたコンレールに1976年に引き継がれた。もし、損失の大きな旅客輸送を切り離すことができれば、ペン・セントラル鉄道やその他の北東部鉄道会社を収益性の上がる状態に再建できるかもしれないという期待があった。しかしこれは実現することはなく、各鉄道は破産状態から再建することはできなかった。
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