ベネルクスの領有
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/30 03:32 UTC 版)
「フィリップ3世 (ブルゴーニュ公)」の記事における「ベネルクスの領有」の解説
和約によりフランスと友好関係が築かれたが、イングランドにとっては裏切りでしかなく、報復としてフランドル商人の弾圧、商船の襲撃などを行い、対する善良公も1437年にイングランド領のカレーを包囲したが失敗、逆にブリュージュ・ヘントなどが蜂起して足元が揺らいだため、都市の反乱を平定した後の1439年9月にイングランドと休戦協定を結び、通商関係も回復して事無きを得た。翌1440年、妻イザベルの尽力でイングランドから解放された父の政敵オルレアン公シャルル・ド・ヴァロワを迎え入れ、姪マリー・ド・クレーヴ(姉マリーとクレーフェ=マルク公アドルフの娘)を娶わせている。 背後を固めた善良公は再びネーデルラントへ目を向け、ルクセンブルクへ狙いを定めた。この地はロレーヌ公国と共に2つに分かれた善良公の領国(北のネーデルラント・南のブルゴーニュ)の連結を果たしていたため必要だったが、代々の領主が金に困り転売を繰り返していた土地だった。1441年に善良公は領主エリーザベト・フォン・ゲルリッツと協定を交わして抵当権を手に入れたが、同名の従妹エリーザベト・フォン・ルクセンブルクが所有権を持っていたため彼女の娘アンナの夫テューリンゲン方伯ヴィルヘルム3世が所有権を主張して1443年に戦争となった。善良公は武力でルクセンブルクを占領して実質的に領主となり、ヴィルヘルム3世と交渉して彼が主張を放棄した1461年に正式にルクセンブルクの領主と認められ、ベネルクス3国は善良公が領有した。 こうしてフランス東部とドイツ西部の境目に連なる領土を手に入れた善良公は以後も外交活動を継続、1453年にヘントの再度の反乱を鎮圧、リエージュ司教領の人事に介入して甥のルイ・ド・ブルボン(妹アニェスとブルボン公シャルル1世の子)を司教に就任させ、オスマン帝国に対する十字軍提唱(実行されず)、1456年にシャルル7世との仲が悪化した王太子ルイ(後のルイ11世)のブラバント迎え入れも行っている。ただし晩年には老齢から指導力が衰え、息子シャルルと家臣のクロワ一族が対立、それに乗じてルイ11世がアラスの和約でブルゴーニュに渡ったソンム川の土地を買い戻すなど失敗が続いている。 1467年に70歳で死去、後をシャルルが継いだ。 百年戦争の後半の展開を左右した善良公だが、ネーデルラントにおいては領土を拡大し、安定した統治を行った。金羊毛騎士団を創設し、騎士道文化が最盛期を迎えた。フーベルト、ヤンのファン・エイク兄弟などのフランドル派絵画や、ネーデルラント楽派の音楽はヨーロッパで最高水準の物となった(北方ルネサンス)。
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