ベトナムからのボートピープル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 07:25 UTC 版)
「ボートピープル」の記事における「ベトナムからのボートピープル」の解説
詳細は「ベトナムからのボートピープル(英語版)」を参照 ベトナム戦争では1975年4月30日の「サイゴン陥落」以降、旧ベトナム共和国から数多くの難民が国外に亡命した。ボートピープルの多くは都市部出身者、旧南ベトナム政府関係者や旧南ベトナム軍関係者とその家族、資産家、富裕層、華僑や華人であった。香港、マカオの難民収容所の7割は中国系ベトナム人であった。中国系のボートピープルが多く出たのは、中国とベトナムの対立でベトナム政府が華僑を排除する政策を打ち出したためである。 1978年、オーストラリアのマッケラー移民相は、ベトナム当局が社会事業の一環として、ベトナム国内の華僑人口を減らすため、難民の大量流出を助長している証拠は十分に揃っているとして、ベトナムを非難した。 オーストラリアは、1975年から1985年の10年間に9万人以上のベトナム難民を受け入れているが、1986年のオーストラリア在住の華僑・華人人口20万人のうちベトナム出身の華僑・華人は最多の39%で、約8万人であった。 1988年には、ペルシャ湾での任務に向かうアメリカ海軍の揚陸艦に食料だけ与えられ救助されず、故障した船で漂流していた難民がフィリピンで救助されるなど、はじめに比べ、国際社会の関心は薄れていく。1980年代に入ると、ボートピープルがベトナムに帰国した場合、国際連合難民高等弁務官事務所から帰国手当てが支払われ、こうした手当てを目的に、第三国を出国する経済難民が増えた。 アメリカ合衆国は、これまで旧南ベトナムから多くの移民を受け入れている。アメリカには、多くの亡命ベトナム人のコミュニティが存在しており、特にリトル・サイゴン (Little Saigon) というベトナムタウンが有名である。1970年代後期から、第三国に移住したインドシナ系中国人の増加により、フランスやオーストラリア、カナダ、アメリカなどでは、世界有数規模のチャイナタウンが新たに形成されていった。 ニューヨークやロサンゼルスの他、シカゴの北華埠、パリ南部13区、シドニー郊外のカブラマッタなどの大規模なチャイナタウンは1975年以降、海外に移住したインドシナ華僑により形成された。
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