ヘンドン及びエッジウェア 1902年 - 1924年
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「チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道」の記事における「ヘンドン及びエッジウェア 1902年 - 1924年」の解説
エッジウェア・アンド・ハムステッド鉄道は路線認可後10年にわたりチャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道、ワトフォードへの路線を計画していたワトフォード・アンド・エッジウェア鉄道(英語版)(英語:Watford and Edgware Railway、W&ER)と共同して路線計画の微調整を重ねるのと並行して資金調達を行っていた。 1906年ワトフォード・アンド・エッジウェア法の成立により、ワトフォード・アンド・エッジウェア鉄道は短期間ゴルダーズ・グリーンからエッジウェアへの路線を建設する権利をエッジウェア・アンド・ハムステッド鉄道から継承したが、建設資金の不足からエッジウェア・アンド・ハムステッド鉄道と合併の上ゴルダーズ・グリーン - ワトフォード間を軽便鉄道として建設する方針に転換し、個別的法律案を議会に提出したが、否決され、この区間の建設主導権はチャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道に戻った。 エッジウェア・アンド・ハムステッド鉄道は1905年、1909年、1912年に建設期間延長、路線計画変更、高架橋及びトンネルの建設、路線建設に支障する道路の廃止、付け替えなどの認可を得ていたが、路線自体はチャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道によって運営されることが想定されていた。1912年に成立した1912年ロンドン電気鉄道法により、エッジウェア・アンド・ハムステッド鉄道はロンドン電気鉄道に買収されることが認可された。 買収後も工事は着工されず、第一次世界大戦の勃発によってさらに工事は延期されることとなった。戦時特例により、エッジウェア・アンド・ハムステッド鉄道関連の個別的法律は1916年から1922年まで毎年延期され、用地買収の最終期限は1924年8月7日とされた。延長された用地買収期間中にもロンドン地下電気鉄道は建設資金を調達することはできず、戦時中の建設コスト急騰により、建設資金の回収は一層困難になっていった。 政府が1921年産業振興法を成立させ、失業対策のため公共工事費用を大蔵省が貸出したことにより、ロンドン地下電気鉄道はハムステッド・チューブのエッジウェアまでの延伸工事資金の調達に成功した。1922年6月12日、ゴルダーズ・グリーンでロンドン地下電気鉄道会長兼社長のアシュフィールド卿(英語版)が鍬入式を行い、工事が着工された。 この延伸線は農地を抜けるため、地下よりも地上に路線を建設する方が安価ですみ、建設期間も短くできたため、ブレント(英語版)渓谷にかかる橋梁と、ハイド(英語版)とヘンドン(英語版)の短いトンネルを除いて地上に路線が建設された。駅の設計もロンドン地下電気鉄道の建築家スタンレー・ヒープス(英語版)が設計した郊外仕様のものとなった。この延伸線の1923年11月19日にヘンドン・セントラルまで部分開業し、以下の駅が設けられた。 ブレント(後のブレント・クロス) ヘンドン・セントラル 残りの延伸区間は1924年8月18日に開業し、以下の駅が設けられた。 コリンデイル バーント・オーク(1924年10月27日開業) エッジウェア
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