ヘススナサレノデアトトニルコ‐の‐せいち【ヘススナサレノデアトトニルコの聖地】
読み方:へすすなされのであととにるこのせいち
《Santuario de Jesús Nazareno de Atotonilco》⇒アトトニルコ
ヘスス・ナサレノ・デ・アトトニルコの聖地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/10 09:38 UTC 版)
「サン・ミゲルの要塞都市とヘスス・ナサレノ・デ・アトトニルコの聖地」の記事における「ヘスス・ナサレノ・デ・アトトニルコの聖地」の解説
詳細はアトトニルコの聖地(英語版)を参照。 ヘスス・ナサレノ・デ・アトトニルコの聖地ないし単にアトトニルコの聖地 (Santuario de Atotonilco) は、神父ルイス・フェリペ・ネリ・デ・アルファロ(スペイン語版)によって18世紀に建てられた教会建造物群である。彼はサン・ミゲルの町でこの建設を計画したが、伝説によれば、イバラの冠を戴きつつ十字架を運ぶキリストの幻像に呼ばれたという。「ヘスス・ナサレノ・デ・アトトニルコ」は「アトトニルコのナザレのイエス」の意味である。世界遺産としての登録面積は 0.75 ha、周囲に設定された緩衝地域の面積は 4.4 ha である。 建造物群の主たる特色は、身廊や礼拝堂を飾る豊かなメキシカン・バロック(英語版)の壁面装飾である。その大部分は、30年以上を費やしたアントニオ・マルティネス・デ・ポカサングレ (Antonio Martinez de Pocasangre) の作品であり、この教会建造物群が「メキシコのシスティーナ礼拝堂」の異名をとる理由になっている。 立地しているのは、人口597人(2005年)という小さな田舎の地方自治体であるアトトニルコで、今日、正式にサントゥアリオ・デ・アトトニルコ (Santuario de Atotonilco) という名で知られている。アトトニルコは、サン・ミゲル・デ・アジェンデから14 km離れており、周囲に広がるのはアザミ、キンゴウカン、メスキート(英語版)などがまばらに生える乾燥した草原ないし砂漠である。その景観はエルサレムとも比較され、そのことが信者たちに聖地との結びつきを想起させた。 建造物群は巡礼地になっている。対抗宗教改革を念頭に置いて建てられたため、建物や装飾にはイグナチオ・デ・ロヨラの教えが反映されている。イグナチオ・デ・ロヨラの実践に従った悔い改めの場としての聖地の役割は、ネリ神父に導かれ、参加した25人とともに1765年に始まった。聖地は、鞭打ちや断食を通じた肉体的苦行を含むイグナチオ・デ・ロヨラの精神的修養のための場としてはメキシコでも主要なもののひとつとなっている。毎週、5000人かそれ以上を受け入れることがある。 1812年以降、毎年、『セニョール・デ・ラ・コルムナ』(Señor de la Columna) と呼ばれる、柱に縛り付けられ打ち据えられるイエスの像がアトトニルコとサン・ミゲル・デ・アジェンデを行き来している。1812年にサン・ミゲルで伝染病が流行ったときに求められたことがきっかけとなって始まった行事で、今日では毎年、聖週間に先立つ土曜日にサン・ミゲルへと運ばれ、木曜日の夜にアトトニルコに返却される。こうした行事の存在と継続性は、サン・ミゲルとアトトニルコを一つの世界遺産として推薦する上での、両資産の結びつきを示す一例とされた。
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