サン・ミゲルの要塞都市
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「サン・ミゲルの要塞都市とヘスス・ナサレノ・デ・アトトニルコの聖地」の記事における「サン・ミゲルの要塞都市」の解説
詳細は「サン・ミゲル・デ・アジェンデ」を参照 サン・ミゲルの要塞都市は、グアナフアト州のサン・ミゲル・デ・アジェンデの歴史地区である。世界遺産としての登録面積は 43.26 ha、周囲に設定された緩衝地域の面積は 40.05 ha である。 かつてはサン・ミゲル・エル・グランデなどと呼ばれていた。当初の町の名前は建設者である神父フアン・デ・サン・ミゲルに由来しており、1826年にこの町出身のイグナシオ・アジェンデにあやかって改名された。 16世紀初頭のスペイン人到達前には、イスクイナパン(Izcuinapan, 犬たちの場所の意)と呼ばれた土地に、先住民たちの集落があった。その先住民集落の近傍に小さな礼拝堂が建ったところから、フアン・デ・サン・ミゲルによる集落建設が始まった。彼はその町を大天使ミカエルに捧げることを決意したが、スペイン人の到達と入植は地元民を刺激した。チチメカ人たちはその地域のスペイン人旅行者を襲撃し、1551年にはグアマレ人 (Guamare) たちが集落自体も襲った。このことと、それに続いた水の供給に関する問題が、当初の集落を放棄し、移住することを招いた。 集落は1555年にフアン・デ・サン・ミゲルの後継者ベルナルド・コッシン (Bernardo Cossin) および地元の指導者フェルナンド・デ・タピア(英語版)によって公式に再建され、伝道施設として、また軍事的前哨基地として機能した。新しい町はかつての町の北西に築かれ、2つの泉に恵まれており、より防衛にも適していた。2つの泉は1970年代まで、町の水の全需要を賄うことができていた。 16世紀半ばまでに、サカテカスで銀が発見され、そことメキシコシティをつなぐ幹線道路はサン・ミゲルを通るものであった。隊商を狙う先住民の襲撃は続いており、サン・ミゲルは軍事的にも商業的にも重要な位置を占めた。そうした襲撃やスペインの支配に対する反乱を鎮圧するため、メキシコシティの副王はこの地への定住を促そうと数多くのスペイン人たちに土地や家畜を与えた。その町の立地が、町をスペイン人と先住民、のちにはクリオーリョも混じる坩堝にし、文化交流を促した。 やがて、幹線道路群はサカテカスだけでなく、サン・ルイス・ポトシやグアナフアト州のほかの鉱山と町をつないだ。旅行者や鉱山集落の必需品を供給することで、町は豊かになった。また、繊維工業が特筆されるべき工業となり、地元の人々はセラーペ(英語版)を発案したのはこの町だと主張している。 18世紀半ばまでに町は栄華を極め、大邸宅、宮殿、宗教建造物群のほとんどが建てられた。それらの建物の大半は現存している。町は地域の富裕な大規模農園の経営者たちが暮らす場でもあった。その当時のサン・ミゲルは、人口3万人に達する、ヌエバ・エスパーニャでも重要性と繁栄ぶりの面で屈指の都市となっていたのである。ちなみに18世紀半ばのボストンは16,000人、ニューヨークは25,000人だった。町の絶頂期はバロック建築から新古典主義建築への移行期にあたっており、邸宅や教会の多くが影響力を持っていた。
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