プロヴァンス・アンジューの治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 22:44 UTC 版)
「ルネ・ダンジュー」の記事における「プロヴァンス・アンジューの治世」の解説
ルネはアンジューとプロヴァンスを水路・陸路交えて行き来しており、ロワール川やローヌ川周辺の町に痕跡が残っている。後述するタラスコンを始め、ジャック・クールとの交流や街の整備に努めたマルセイユ、ルネの館が現存するアヴィニョンが挙げられる。中でもタラスコンとエクス=アン=プロヴァンスがルネが長く過ごした地で、エクス=アン=プロヴァンスではミラボー通りに左手にぶどうを握り、耕作の奨励が表現されたダヴィッド・ダンジェ作のルネ像がある。 造園に熱中していたルネはエクスの宮殿の隣に庭園を建て、色々な花や野菜を植えていた。1454年のジャンヌ・ド・ラヴァルとの再婚で一層自然にのめり込むようになり、牧歌的生活を好む後妻の影響もありガルダンヌで土地を買い取って農園経営に乗り出し、風車・牧場・畑・井戸・泉・小川まで掘られた農場に30人の使用人、ぶどう・桃など果物や牛・豚・羊などの家畜も育てられた。現存していない農場はルネのイタリアへの夢が反映され、エクスのルネ像の表現にも繋がっている。また1459年にレ・ボー=ド=プロヴァンスをジャンヌへ与え、ここで詩作・音楽など芸術に打ち込んだ夫婦生活を送った。 ローヌ川沿いの街タラスコンにはルネの名残があり、地名の由来である怪物タラスクを退治した聖マルタの伝説と、彼女を祀った聖マルタ教会が有名だが、向かいにあるタラスコン城をナポリから連れて来た職人たちに改修させて現在見られる形にしたこと、タラスクに因む「タラスクの祭り」に先鞭をつけたのはルネである。またマグダラのマリアを崇拝していたルネは1447年にサント=ボーム山塊へ巡礼、1448年に彼女と共に流れ着いたと言われるマリア・サロメとマリア・ヤコベの遺骨をサント=マリー=ド=ラ=メールで発掘、8月の発掘作業完了、11月の調査結果発表を経て12月にミサを執り行い、遺骨を聖遺物箱へ保管した上で、発掘場所であり整備・改修したサント=マリー教会内の礼拝堂へ置いた。こうして遺骨はサン=ミシェル上部礼拝堂に保管されたが、フランス革命下の1794年に教会が狼藉に遭い、教会は荒らされたが遺骨は信者が事前に運び出したため難を逃れた。 一方、アンジューではプロヴァンスよりルネの事績は少ないが、タラスコンやロレーヌと共に数日にわたる騎馬試合を挙行、聖史劇開催は主としてアンジューで行う、遺体はプロヴァンスから運ばれアンジェで埋葬されるなど、ルネはアンジューでも関わりが深かった。また彼の生活・心情が反映されてか、アンジェ城と美術館にあるタペストリー、ダヴィッド・ダンジェの美術館、城の庭園に植えられたぶどうの木など、ルネが愛した牧歌的風景および芸術に寄せる人間性への思い入れがアンジェに「花と芸術の町」と称される源流を造り出したとされ、アンジューでルネは文芸のパトロン、産業振興家として称えられている。
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