プロヴァンス伯妃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/21 07:13 UTC 版)
「リクサ・シロンスカ」の記事における「プロヴァンス伯妃」の解説
亡きアルフォンソ7世は、最初の妃ベレンゲラ・デ・バルセロナの産んだ存命中の息子2人に自分の王国を分割して与えた。サンチョ3世はカスティーリャを、フェルナンド2世はレオンをそれぞれ相続した。リクサと2人の継息子との関係は良好とは言えなかった。特にサンチョ3世がリクサの娘サンチャの許嫁であるアルフォンソ2世(後のアラゴン王)の父、バルセロナ伯ラモン・バランゲー4世(ベレンゲラの兄弟)に宣戦して以降は、かなり悪化した。レオン王フェルナンド2世と、ローマ皇帝フリードリヒ1世(リクサの従兄)及び対立教皇ウィクトル4世との険悪な関係が、前王妃リクサの立場をさらに難しくした。1159年、リクサはついにアラゴン王国に亡命した。 リクサはアラゴン宮廷でバルセロナ伯の甥であるプロヴァンス伯レーモン・ベランジェ2世と出会った。2人はすぐに恋に落ちたが、2人の結婚自体は明白に政略的な目的から行われた。レーモン・ベランジェ2世はフランス王ルイ7世の支持を受ける教皇アレクサンデル3世に反対し、対立教皇ウィクトル4世を支援していた。またプロヴァンス伯の領国はフランスとイタリア半島の間に位置する戦略上きわめて重要な地域に当たっていた。皇帝フリードリヒ1世もまた、フランス、カスティーリャ、レオンの諸王と結びついていたバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世を味方に引き入れようとしていた。他方、レーモン・ベランジェ2世はリクサとの結婚で皇帝の義理の従弟におさまれば、ローマ帝国領プロヴァンスを封土として獲得したボー伯ユーグとの抗争をより有利に進められるという目算があった。 結婚のための話し合いが1年半続いた後、1161年の1月から10月の間にリクサとレーモン・ベランジェ2世は結婚に踏み切った。伯爵夫妻は1162年頃に、一人娘ドゥースを授かった。しかしレーモン・ベランジェ2世は1166年、ボー伯家との戦争で、ニース包囲の最中に殺害された。 2番目の夫を亡くしてすぐに、リクサの次の結婚話が進みはじめた。1166年頃、リクサは従兄のローマ皇帝フリードリヒ1世の意向でトゥールーズ伯レーモン5世と婚約した。同時に、リクサの娘であるプロヴァンス女伯ドゥース2世も、レーモン5世の長男レーモン6世の許嫁となった。レーモン5世はこの縁組を通じて、ホーエンシュタウフェン朝との結びつきを深め、またプロヴァンス伯領に対する全面的な支配権を獲得しようと考えていた。しかしリクサの未来の娘婿であるアラゴン王アルフォンソ2世(サンチャの許嫁)の猛反対によって、この二重の縁組は破談となった。まもなく、アルフォンソ2世はジェノヴァ人の支援を受けてレーモン5世との戦いを始め、この戦争は8年間続いた。 一部の史料はリクサが実際にレーモン5世と結婚したと主張しているが、現代の多くの歴史家によってこれは事実でないと立証されている。
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