プロヴァンス伯の成立と分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/26 06:14 UTC 版)
「プロヴァンス伯」の記事における「プロヴァンス伯の成立と分裂」の解説
968年、アルル伯ボソ2世(6世)(ルボー1世の子)の子であるルボー2世とギヨーム1世の兄弟は父の領地を分割せずに相続し、プロヴァンス伯と初めて名乗った。以降、この兄弟の子孫がそれぞれ伯爵位を継承し、プロヴァンス辺境伯位はルボー2世の系統が保持した。11世紀には、プロヴァンスを巡って、ギヨーム1世の男系子孫である本来のプロヴァンス伯家と、兄ルボー2世の孫娘エマが嫁したトゥールーズ伯家との間で抗争が繰り広げられた。この抗争を調停するため、1125年プロヴァンス領はデュランス川で分割され、川の南側はギヨーム1世系を継いだバルセロナ伯家が領し、北側はトゥールーズ伯家が領することとなった。 兄ルボー2世の系統は婚姻を通してトゥールーズ伯家に相続されたが、最後の女伯ジャンヌはフランス王ルイ8世の王子アルフォンス・ド・ポワティエと結婚した。これにより、1229年のモー条約(パリ条約)で、トゥールーズ伯領、ナルボンヌ公領、およびプロヴァンス辺境伯領はフランス王家のものとなった。 一方、弟ギヨーム1世の系統は女系を通して、バルセロナ家、アンジュー=シチリア家、ヴァロワ=アンジュー家と相続されたが、1481年に嗣子のなかったシャルル3世が同伯領をフランス王ルイ11世に遺し、息子のシャルル8世が1484年にフランス王領に組み込んだ。これよりプロヴァンス伯位はフランス王家の世襲爵位の一つとなった。これ以降では唯一、後のルイ18世が王位に就く1795年までプロヴァンス伯と名乗っている。
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