プトゥン人とイツァ族をめぐる諸説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/11 00:16 UTC 版)
「プトゥン人」の記事における「プトゥン人とイツァ族をめぐる諸説」の解説
一方、多くの研究者の見方として、チョンタルパ地方が古典期の終末から後古典期の初めごろに物資や思想の交流がさかんに行われた場所であり、その中には、チョンタル語、ナワ語を話す集団や、それらが混合した集団がいたこと、マヤ人であってもメキシコ化した集団いたことについては一致している。また、アンドリュースとロブレスのように、後古典期初頭のチチェン・イッツァを支配したのは、イツァ族であって、ウスマシンタ川やグリハルバ川下流域に住む民族集団の一派であると主張するなどほぼトンプソンの説を肯定する研究者もいる。918年にプトゥン=イツァ族がチチェン・イッツァに住み着くようになったとするトンプソンの主張については、イツァ族の指導者や一族の姓と思われるカックパカルとかココムといった家名(氏族名)が、860年から890年頃の石彫や石碑などをはじめとした文字記録に見出されるとして反論された。コウは、古典期終末期のチチェン・イッツァの支配者は、マヤの年代記にあるように「三人兄弟(または四人兄弟)が二組に分かれた「共同統治」ムル・テパルが行われていた」とみる説を紹介し、そのような統治者の一人にカックパカルという人物がいることや、またセイバルの四面に階段を持つ構築物A-3の周囲には、非マヤ的な石碑が四方に建てられているが、チチェン・イッツァとの図像的な関連性や類似性があるとし、さらにチチェン・イッツァとセイバルの支配者がともにプトゥン人であった可能性も否定しない。一方で、コウは、アンドリュースとロブレスの説をチチェン・イッツァとトゥーラ・シココティトランの建築や図像などの類似性が説明できず、トルテカについての民族誌的記録を全否定しなければ成り立たないとして退けている。また、ロバート・カーマックは、人名、地名や職名その他様々な名詞にチョンタル語が多くみられるほか、戦争や儀礼に関連するナワ語も多くみられることなどを根拠に、プトゥン人がグアテマラ山地に侵入して、キチェーやカクチケルの王国を築いたとする。1994年に、ユルゲン・クレーメル(Kremer,J.)は、イツァ族がプトゥン人であるとするには、あまりにも多くの条件が必要で成り立たないと事実上「プトゥン仮説」を否定した。コウは、イツァ族は、もともとペテン低地に住んでいて、古典期終末にペテン地方の祭祀センター群の放棄にともなって北方に移動した人々であるという見方が強まっているとしている。例えば、リンダ・シーリーとピーター・マシューズが、1998年に著した『Code of Kings(王たちの暗号)』で述べた、イツァ族は、本来ペテン・イツァ湖周辺を故地とする人々で、1450年ごろにチチェン・イッツァを放棄すると、故地であるペテン・イツァ湖周辺にもどってタヤサルを築いた人々であるといった論が好例として挙げられる。
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