フランチェスコが創立した会とは? わかりやすく解説

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フランチェスコが創立した会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 14:22 UTC 版)

アッシジのフランチェスコ」の記事における「フランチェスコが創立した会」の解説

生涯」の章で記され通りフランチェスコ既存修道会似たような組織作ろうとは思っていなかったし、そもそも自身司祭伝統的な修道士になろうと考えたことは一度無かった1210年ローマ教皇庁提出した原始会則平信徒聖職者混じり合って出来た共同体ための会則であり、既存修道会はまった異なるものであった。しかし、彼を中心にして出来上がった小さき兄弟団」は彼の意図越えて成長し、「フランシスコ会」の名で知られローマ教会支える大修道会として発展して行くことになる。 男子修道会第一会)と女子修道会第二会)からなる伝統的な修道会のようにフランシスコ会男女修道会制をとる。第一会はその起源1209年アッシジ成立し1210年教皇インノケンティウス3世によって口頭認可された「小さき兄弟団」に置く。この小さき兄弟団は、今日公認され会則』の名で知られる会則1223年教皇ホノリウス3世から認可受けて現在に至っているが、フランチェスコ死後には穏健派厳格派に分かれて対立し、それは精霊派(スピリトゥアーレ)vs院派(コンヴェントゥアーレ)の対立となって世紀の間続いたフランシスコ会は、同時代設立されドミニコ会とともに清貧と禁欲の生活を理想とし、従順清貧貞潔掲げベネディクト会戒律とも共通していたが、清貧徹底という点で既存修道会とは一線を画していた。フランシスコ会ドミニコ会はともに、居住する家屋食物ももたず、すべてを他者喜捨たよったため、「托鉢修道会」と呼ばれたフランチェスコ学究生活清貧馴染まないものとして退けていたが、周囲説得神学研究が行われるようになり、スコラ哲学一大拠点としてフランシスコ会機能して行くことにもなる。トマス・アクィナス並び称されボナヴェントゥラ1221年?-1274年)や、ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス1266年?-1308年)、オッカムのウィリアム1285年-1347年)などが有名である。 女子修道会第二会は、1212年キアラクララ)が家を出てフランチェスコ活動加わったことを起点とするが、その会則教皇から認可を受けるのは1253年になってからで、フランチェスコ没後27年キアラが死ぬ僅か2日前のことである。キアラの下に女性達手仕事生計立てて病人世話などを行い貧しき貴婦人たち」と呼ばれたが、今日ではクララ会呼ばれている。 一般信徒在俗者)のための第三会1221年設立された。小さき兄弟会分裂避けるための組織化図られていた時期に、「純朴な人々のための小さな共同体」という性格留めさせておきたかったフランチェスコ意図汲んで、ウゴリーノ枢機卿提案作られたものとされている。しかし、教皇庁利害奉仕する属人的かつ修道士的な一種民兵団として利用され側面もある。

※この「フランチェスコが創立した会」の解説は、「アッシジのフランチェスコ」の解説の一部です。
「フランチェスコが創立した会」を含む「アッシジのフランチェスコ」の記事については、「アッシジのフランチェスコ」の概要を参照ください。

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