フランチェスコ2世の下で
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/28 05:51 UTC 版)
「カルミネ・クロッコ」の記事における「フランチェスコ2世の下で」の解説
クロッコは1861年の復活祭には10日間でヴルトゥレ(Vulture)一帯を制圧することになる。4月7日にラーゴペゾーレ(Lagopesole)を襲撃して城を味方の守備要塞とし、8日はリパカンディダ(Ripacandida)のイタリア国家警備隊(Guardia Nazionale Italiana:1860年から1876年まで活動したイタリア統一新政府による治安維持を目的とする軍組織)駐屯地を攻略した。クロッコは即座にサボイア政権の陥落を宣言し、フランチェスコ2世の旗と紋章を町に掲げた。10日にはヴェノーザ(Venosa)に入りこれを手中にする。このとき後にイタリア王国14代首相となるフランチェスコ・サヴェリオ・ニッティの祖父フランチェスコ・ニッティが彼らの手により殺されている。 続いて15日にはラヴェッロ(Lavello)、メルフィ(Melfi)へと意気揚々と進軍したが、一説に寄ると、このときの彼らの略奪行為はことに凄惨であったらしい。間もなくポテンツァ(Potenza)、バーリ(Bari)、フォッジャ(Foggia)から新政府側の援軍が派遣されたため、クロッコはメルフィを諦め、直近の手下を連れてアヴェリーノ(Avellino)方面へ移動し、アクイローニア(Aquilonia)、カリトリ(Calitri)、サンタンドレーア・ディ・コンツァ(Sant'Andrea di Conza)、サンタンジェロ・デイ・ロンバルディ(Sant'Andrea dei Lombardi)を数日のうちに占拠した。ルカーニア(現バシリカータ州)を超えてイルピーニア(カンパーニア州)にまで勢力を伸ばしたクロッコの来襲は地元民に大きな衝撃を与えた。例えば、トレヴィーコ(Trevico)やヴァッラータ(Vallata)などの町はクロッコの影響を受け、土地の盗賊団を反政府組織に再編成しチリアコ・チェッローネ(Ciriaco Cerrone)なる野盗を指揮官に据えたほどであった。クロッコの進軍はさらにプーリアとの境界も超えた。彼の配下にあったサンターガタ・ディ・プーリア(Sant'Agata di Puglia)出身のジュゼッペ・スキアヴォーネ(Giuseppe "Sparviero" Schiavone)が支えとなって、前述のサンタガタのほかボヴィーノ(Bovino)、テッラ・ディ・バーリ(Terra di Bari)へと前進したのである。 この頃時を同じくして、クロッコはかつて彼を支えガリバルディ軍への入隊を進めたデチオ・ロルディが実は裏切り者であり新政府側に彼の情報を漏洩していることを知る。ロルディへの報復を決意。手下の者たちに拉致を命じて自らはエボリ(Eboli)一帯を目指して出発した。一方、ロルディは護衛を付けて警戒。盗賊たちに襲われたものの逆にこの者たちを圧倒して逃亡に成功、事無きを得た。この一件以来、カルミネはこれまで自分を支援しているかに見えた地元有力者たちを一切信用しなくなった。1861年8月クロッコは武装集団の解散を計画する。この頃ジュリオ・デ・ローランド男爵(Giulio De Rolland)が新政府のバシリカータ長官にとしてピエモンテから赴任する。前任のジャコモ・ラチョッピ(Giacomo Racioppi)はクロッコら盗賊団に煽動された反政府運動が収束しないことを批判され解任されたところであった。 しかしブルボン家亡命政府による兵力増強支援が約束されると、クロッコは再び闘いに戻る。ブルボン家将軍トンマゾ・クラリ(Tommanso Clary)の命により、1861年10月22日スペイン人将軍ホセ・ボルヘス(José Borjes)が到着。ボルヘスはこの直前にカラブリアからイタリアに上陸していたところ、前述のクラリ将軍づてにクロッコの連戦連勝を聞くに至って彼との面談を画策した。二人の邂逅はラーゴペーゾレの森中であった。ボルヘスはクロッコの中に反新政府勢力の希望を見いだし彼を信頼した。そして彼の部隊に軍規と戦術を授け、正規軍に仕立てることを望んだ。また少数の中道派をも取り込んでその組織を刷新し、新兵として自らの隊に入隊させようと計画した。彼の目標はポテンツァ攻略であった。この時期ポテンツァの新政府守備隊はなおも堅牢を保っていたからである。クロッコはボルヘスに忠実であった。しかし、ボルヘスに対して親しみを感じたことは一度たりともなく、ボルヘスが自分の指揮に干渉するのを警戒していた。カルミネにとってボルヘスは「気の毒な夢想家(povero illuso)」であった。 この間にポテンツァから助っ人が加わった。フランス人オーギュスタン・マリ・オリヴィエ・ドゥ・ラングレ(Augustin Marie Olivier De Langlais)である。この男は生粋のブルボン王政復古主義者という触れ込みであったが、その言動には曖昧さが目立った。ボルヘスは日記に「『将軍だ』と売り込んできたが、その行動は馬鹿者同然だ」と記している。いずれにせよドゥ・ラングレはこの後クロッコと共に数多くの侵略に参加した。
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