フランス革命戦争〜ナポレオン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 03:08 UTC 版)
「第2次百年戦争」の記事における「フランス革命戦争〜ナポレオン戦争」の解説
イギリスは当初フランス革命に対して不干渉の立場をとっていたが、ルイ16世の処刑をきっかけに第1回(1793年 - 1797年)、ナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征の際の第2回(1799年 - 1802年)、ナポレオンの皇帝即位の際の第3回(1805年)、ナポレオンのロシア遠征失敗後の第4回(1813年 - 1814年)の4度にわたって対仏大同盟を結成し、同盟において主導的立場に立った。第1回大同盟は英首相ピット(小ピット)の提唱によるものであり、その実現を可能にしたのが「ピット氏の黄金」と呼ばれる、イギリスが同盟各国にばらまいた援助金であった。ただし、にもかかわらず同盟国側は足並みがそろわず、幾度となく同盟は廃棄された。 他方、ヨーロッパ大陸制圧後のナポレオンはトラファルガー海戦の敗北ののち、大陸封鎖令(ベルリン勅令)を出してイギリス封じ込めを企図したものの、成功しなかった。最終的には、ライプツィヒの戦いに敗れたナポレオンが退位、ウィーン会議が開かれ、ブルボン朝が復活する。途中ナポレオンの百日天下もあったが、再開されたウィーン会議では、フランス外相タレーランが「正統主義」を主張、ヨーロッパの秩序はフランス革命以前の状態に復することとなった。 このあいだイギリスは新興国アメリカとのあいだで英米戦争を戦っている。1814年には首都ワシントンD.C.を占領するにいたっているが、ヨーロッパにおける戦争の帰趨が決定的に重要であり、新大陸での戦いは二の次であった。この戦争は決定的な勝敗をみることなく終結した。 ナポレオン戦争はまた、世界的にはイギリスの覇権をより強固なものにする契機となった。オランダが革命フランスの勢力下に置かれたため、イギリスはケープ植民地(南アフリカ共和国西部)やセイロン島(スリランカ)、東インド(インドネシア)などオランダ植民地を次々に占領した。イギリス船はオランダ商館が置かれた長崎にまで来航し、フェートン号事件を起こしている(1808年)。ウィーン議定書によって東インドはオランダに返還されたが、セイロンやケープ植民地は返還されず、イギリスは1815年セイロン島内陸部のカンディー王国を征服してセイロン植民地を成立させた。 なお、フランス革命で奴隷制度は少なくとも理念の上では廃止された(1794年)。1807年にはイギリスやアメリカでも奴隷貿易が廃止され、公式の場ではそのように表明されたが、密貿易は依然続いたといわれる(イギリス議会の奴隷制度廃止決議は1833年)。
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