フェランティ (Ferranti, Sebastian Ziani de)
フェランティという人は
セバスチャン・チアニ・デ・
フェランティ
リバプールに生まれ、若い頃はイギリスのエジソンと呼ばれた。 発明家、技術者、イギリスの指導的な電機メーカーとして活動的な生涯を送る。 科学や電気技術の高等教育は受けなかったが、1881年にジーメンス社のイギリス支店で働き始め、工場内でアーク灯や発電機に囲まれながら電気工学への熱意が育った。 目覚めた彼は天才であり、1883年、弁護士の勧めで独立し、交流発電機の発明へ歩きはじめる。
フェランティの主な経歴
1886年、サー・クーツ・リンゼー社に招かれ技師長を任命される。 ニューボンド街のグローヴナー美術館は白熱電球を照明としており、ジーメンスの単相交流発電機とゴーラールとギッブズの変圧器を使用していた。 早速フェランティは変圧器の一次巻線を並列に接続がえした。 グローヴナー美術館発電所は後に拡張し、700馬力、2500V、5つの発電機、5つの回路をもち、3万4千個の電球でロンドンの1区域を照らすに至った。
1887年、一万馬力、一万ボルトという壮大なデッドフォード発電所計画が始まった。 なんとこのとき23歳である。 当時、一万馬力、一万ボルトとは未知の技術であり、途方もない冒険であった。 テムズ川のほとりから川越えでロンドンへ送電する計画であった。 まだ主流は直流であり、ロンドンにも小規模直流発電所は増え続けていた。 購入した高圧ケーブルが機能せずフェランティ自ら紙絶縁ケーブルを設計したりもした。 フェランティは交流システムの未来を信じていた。
デッドフォードのフェランティ発電機
1890年、デッドフォード発電所はロンドンに向け送電を開始したのだが、変電所火災などのトラブルがあり顧客をとられることになった。 フェランティの青写真はかなわず、ホプキンソンやフレミングはデッドフォードをこう評している。 「高電圧、長距離送電を使っているため構造的に難点をかかえており、薄氷のうえかろうじて...解決するには消費区域の近くに小規模の直流発電所を建設して...」 これは、交流、直流いずれが主流になるか争うなかで、交流側であるフェランティには屈辱だった。 しかし、フェランティの挑戦はすべての大規模発電所の先駆けだったといえる。
セバスチャン・チアニ・デ・フェランティ
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