パナマ運河の完成と対米関係
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「パナマの歴史」の記事における「パナマ運河の完成と対米関係」の解説
1914年、パナマ運河が完成したが、アメリカ合衆国は運河地域だけではなくパナマ全域で直接的な介入を行った。パナマは、アメリカ合衆国の影響力の下におかれ、1925年の海兵隊の上陸などの軍事介入をたびたび経験した。1920年代になっても国内の政情不安は解決されなかった。 1931年、アルヌルフォ・アリアスを指導者とする反米ナショナリストグループ「共同行動」がクーデターにより政権を奪取したが、アメリカ合衆国は介入しなかった。1932年、アルモディオ・アリアス(アルヌルフォ・アリアスの兄)が大統領に選出された。その後数年間アメリカ合衆国との関係は前進し、1939年にはヘイ・ビュノー・バリリャ条約の改訂条約である友好協力条約(アリアス・ルーズベルト条約)が成立した。同条約では、運河地域の年間使用料が43万ドルに引き上げられ、アメリカ合衆国がパナマの独立を保障するという条項は削除された。また、アメリカ合衆国はパナマへの内政干渉権を放棄したが、有事の際には運河防衛のためパナマ領内に軍隊を派遣する権利を獲得した。 1940年、アルヌルフォ・アリアスが大統領に就任し、アメリカ合衆国が要求した運河地域外の基地用地の貸与を拒否する等反米的な政策を展開したが、1941年に国家警備隊により追放されキューバに亡命した。アリアスに代わって大統領に就任したデ・ラ・グアルディアは、1942年にアメリカ合衆国に対する基地貸与協定を成立させ、パナマは、1942年に連合国側として第二次世界大戦に参加した。 1942年の基地用地貸与協定では、第二次世界大戦終了後1年以内に返却することが規定されていたが、1946年、アメリカ合衆国政府は貸与期間の延長を求めた。当時大統領であったヒメネスは、1947年、アメリカ合衆国との貸与期間延長協定に合意したが、パナマ国民の抗議運動が活発化したことから議会は批准せず、パナマが用地を貸与した運河地域外の基地から米軍は撤退した。 大戦中は、パナマが用地を貸与した米軍基地の存在もありパナマ経済は好調だったが、戦後は、インフレ、失業、債務等の問題が生じ、人口増加がそれを加速させた。1949年、レモン国家警備隊司令官の支援によりアルヌルフォ・アリアスが再び大統領に就任した。しかし、1951年、アリアスが国会を解散しストライキが発生すると、レモンはアリアスを追放した。1952年、レモンは、大統領に選出され教育及び税制等の改革を実施したが1955年に暗殺された。
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