パナマ運河と独立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 18:26 UTC 版)
「マヤリノ=ビドラク条約」の記事における「パナマ運河と独立」の解説
1861年に勃発したアメリカ南北戦争は1865年に終結するとパナマ運河建設計画の機運が再び盛り上がりアメリカ議会はフランスの会社からパナマ運河の工事権と資産を買い入れるための行動を開始した。紆余曲折を経た1903年、アメリカ国務長官ジョン・ヘイと駐在コロンビア代理公使トマス・エランによる運河引継ぎに関する条約ヘイ・エラン条約が批准されることになった。ところが直前にコロンビア議会がこれを否決してしまった。これは莫大な運河の権利譲渡金を巡りフランスの会社とコロンビア政府との間で対立が起きていたためだが、この時コロンビア共和国の一部であったパナマ地峡はこの否決後、アメリカがパナマ独立運動家マヌエル・アマドール、フィリップ・ビュノー・バリーヤを支援し同年10月、無血革命によりパナマ共和国として独立を果たした。最終的に、マヤリノ=ビドラク条約はアメリカ合衆国が政治的、経済的にパナマ地峡に影響を及ぼす合法的な抜け穴を与えることになっていた。 同年11月18日、パナマ独立運動家フィリップ・ビュノー・バリーヤはアメリカ合衆国とパナマ運河条約を調印。しかしながらアメリカは運河構築のためのパナマ地峡の一片の通行権獲得に失敗したため、以後のコロンビア共和国からのパナマ分離姿勢を一変させた。
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