ニューセイラム時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:00 UTC 版)
「エイブラハム・リンカーン」の記事における「ニューセイラム時代」の解説
一人でサンガモン川(英語版)をカヌーで下り、イリノイ州サンガモン郡(現在のメナード郡)ニューセイラム(英語版)に移り住んだ。同年春、ごろつき集団「クレアリーズ・グローブ・ボーイズ(Clary’s Grove boys)」の有名な首領ジャック・アームストロングの挑戦を受け、デントン・オファットのゼネラルストア(雑貨屋)でレスリングの賞金試合(創世期のプロレス)を行い引き分けたという。非常に激しい試合の展開で、その腕力と大胆さで知られるようになった。1831年末にニューセイラムの実業家デントン・オファットに雇われ、友人とともに平底船に乗ってニューセイラムからルイジアナ州ニューオーリンズへサンガモン川からミシシッピ川を下り品物を運搬した。ニューオーリンズ滞在中に彼は自身の生涯に大きな影響を与えることとなる黒人奴隷売買を目撃していた可能性がある。1832年4月11日の地方新聞(イリノイ州ビアーズタウン)にレスリングの試合でロレンゾ・ダウ・トンプソンがエイブラハム・リンカーンを2-0で破ったという記事がでた。リンカーンは歩いてニューセイラムに戻った。 リンカーンは若いころにジョシュア・フライ・スピードという友人とともに暮らし、さらには夜に同じベッドで睡眠をとっていた。この生活は4年間続き、スピードのほかに別の友人も同じ部屋で生活した時期もあった。スピードとの特別な友情は彼の死まで続いた。極めて親密ではあるが性的行動は介在しない同性との関係はロマンティックな友情と呼ばれ、当時の西欧社会では珍しいことではなかったが、妻のメアリー・トッドとの関係がやや希薄であったとの資料もあり、歴史家の中にはリンカーンがバイセクシュアルであったと考えるものもいる(Sexuality of Abraham Lincolnを参照)。 リンカーン自身は自らについてあまり語らなかった。大統領指名が問題になったころ、選挙関係の文書に使う資料として求められ、早急に起草した自伝風の素描が「自叙伝」と呼ばれるものであり、上述のような半生が語られている。高木八尺がフロンティア精神を発揮したパイオニアの典型に挙げたのは、リンカーンである。丸太小屋に育ち、斧で樹を伐ることにすぐれ、敬虔、素朴、質実、健全という辺境生活が培った美徳を備えた人物としてリンカーン像が描かれており、ユーモアのセンスを豊かに持っていたことを含めて、リンカーンの性格は「すべて辺境において彼の経験した、人としての鍛錬と切り離しては考え難い事柄である」と述べている。 のちにリンカーンが大統領になってから、『アンクル・トムの小屋』を書いて有名になっていたハリエット・ビーチャー・ストウをホワイトハウスに招いたことがあった。このとき、リンカーンはいきなり「ではあなたがこの大きな戦争を起こした本を書いた小さな婦人ですね」と述べた。ハリエットに付き添っていた娘のハティは、兄弟にあてた手紙の中でこの時の様子を述べ、「ホワイトハウスで過ごした時間はとてもおどけていたのよ、本当よ」と書き、「帰ってからはなすけれど、とにかくとてもおかしくて、いつも今にも笑いが爆発しそうだったわ」と会談の雰囲気を描いていた。リンカーンのユーモアを推測させる逸話である。
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