ニュース映画の配給
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 18:07 UTC 版)
「アメリカ合衆国のボクシング中継」の記事における「ニュース映画の配給」の解説
活動写真や無声映画の時代には多くのボクシングの試合が脚色なしに実写映画(後にニュース映画)として上映されたが、中には再現や模造によるものもあった。ボクシングはトーマス・エジソンのエジソン製作所が最初に扱った主題のひとつであり、1892年にはボクサーを撮影した映画のサムネイル画像が雑誌に掲載された。限られた空間で2選手だけを映せばよいボクシングとフェンシングは当時、映像化するのが最も簡単なスポーツだった。当初は映写ではなくキネトスコープの装置を覗き込む形で鑑賞するものとして販売されたが、ボクシングの映像は人気を博し、メディアの普及に役立つとともに競技への資金調達に影響を与えるようになった。映画の初期の時代には、懸賞試合は全ての州で違法であったが、試合を展示やコンテストとして課金することで禁止が解かれることが多かった。ネバダ州は1897年に懸賞試合を合法化。この年3月17日、同州カーソンシティでイーノック・J・レクターが3台のカメラを並置して90分にわたるジェームス・J・コーベットとボブ・フィッシモンズの世界ヘビー級タイトルマッチを撮影した。これは現存する最古の実写記録となっている。この『コーベット対フィッシモンズ戦』(The Corbett-Fitzsimmons Fight) の成功はニューヨーク州などで懸賞試合の禁止緩和の一助となり、コーベットの試合は頻繁に撮影された。 ボクシングは映像技術の進歩に拍車をかけた。1899年6月9日に撮影された『フィッシモンズ対ジェフリーズ戦』(The Fitzsimmons-Jeffries Fight) は、ジェームス・J・ジェフリーズがブルックリンのコニーアイランドでフィッシモンズを11回KOで倒し、世界ヘビー級王者となる試合を記録したものである。この試合は夜間の時間帯に予定され、ビタグラフ社は75個のアークランプを使って撮影したが、当初予定されていた日には照明の不備があり、数日後に撮り直しとなった。同じ年にペドラー・パーマーとテリー・マクガバンの試合は、よりよい天候と照明の下で映像を撮りたいという製作者の意向で1日延期されている。 同年11月3日夜、アメリカン・ミュートスコープ&バイオグラフ社(現在のバイオグラフ社)がコニーアイランドで撮影した『ジェフリーズ対シャーキー戦』(The Jeffries-Sharkey Contest) は、宣伝用のポスターによれば、この近代最高の試合の動きをあますところなく伝える、最も優れた活動写真と謳われている。これはジェフリーズがトム・シャーキーを相手に25回戦で行った世界ヘビー級王座の初防衛戦を記録したもので、ジェフリーズのマネージャーのウィリアム・A・ブラディとプロモーターのトーマス・オルークが試合を後援し、カメラマンはフレデリック・S・アーミテージ、ジョージ・ウィリアム・ビッツァー、アーサー・マービンであった。リング上には夜間の撮影用に500以上のアークランプが装備されていたが、この放熱により両選手は45度を超える高温の中で戦うことになった。試合は判定決着となり、3万5000フィート(7マイル)の68ミリフィルムが使用された。この映像は商業用に貸し出されて何百ものニッケルオデオンで上映され、数年間にわたって人気を博した。ジェフリーズは、6年間の王者時代におよそ20の映像を残している。
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