トヨタとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 03:17 UTC 版)
「オベ・アンダーソン」の記事における「トヨタとの関係」の解説
1970年代前半にアンダーソンは彼自身のチームである「アンダーソン・モータースポーツ」を所有していた。その活躍が国際ラリー活動を模索していたトヨタの目に止まり、福井敏雄との面会の後、1972年より資金・技術支援を受ける。 しかし1974年にオイル・ショックの煽りを受けてトヨタはモータースポーツ活動を休止し、アンダーソンも日本に呼び出される。しかし直前までの福井敏雄の必死の説得により、豊田英二社長の口から聞かされたのは今後のサポートを事実上拡充するという内容であった。アンダーソンは「日本に行く機中は死刑宣告を受けに行く気分だったが、帰りは希望に満ちていた。こんな経験は人生で二度とないものだろう」と語っている。 1975年よりトヨタの公認を受け、チーム名を「トヨタ・チーム・ヨーロッパ (TTE)」と名乗る。同年の1000湖ラリーでトヨタのWRC初優勝を獲得する (マシンはカローラレビン)。1979年にチームの拠点をベルギーのブリュッセルからドイツのケルンに移転し、「アンダーソン・モータースポーツGmbH」を設立する。レビンの後はセリカを使用し、年数戦のWRC参戦を続ける。 またこの頃日本においては2代目スターレット (KP61型) のテレビCMに出演していた事で有名となった。CMでは「ラリーの神様」とテロップされていた。 1983年、トヨタのモータースポーツ活動再開により、本格的にワークス活動を開始する。1993年7月には、トヨタがアンダーソン・モータースポーツGmbHを買収し、社名は「トヨタ・モータースポーツ有限会社 (TMG)」へと改称された (チーム名はTTEを継続)。 しかし1995年に、TTEはシーズン中にリストリクターに関するレギュレーション違反が発覚し、シーズン全ポイントの剥奪、および1996年シーズンの1年間参戦禁止という処分を受ける。トヨタ本社ではTMGの存続やアンダーソンの責任問題が議論されたが、1997年もWRC参戦を自粛する形で決着した。TTEは2年間の休止期間中に新規定の「WRカー」としてカローラWRCを開発した (1997年には非公式でテスト参戦)。 1998年よりWRCに正式に復活し、1999年には3度目のメイクスタイトルを獲得する。しかし、トヨタがF1への参戦を決定するとその役割に集中するため、同年限りで27年間のラリー活動に終止符を打った。
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