デビュー前夜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 13:47 UTC 版)
20代前半、大学時代(20歳の時)に結成した3人組のバンド“ビコーズ”(ピアノ・ギター・ベースの編成)で、音楽喫茶(銀座タクト、渋谷“青い森”等)に出演するようになる(渋谷ジァン・ジァンはオーディションで落選)。バンド名はデイブ・クラーク・ファイブの楽曲「Because」が由来であり、ライヴのオープニングでは同曲を歌っていたという。“青い森”では、アンドレ・カンドレと称していた井上陽水と出会い、お互いオリジナルやビートルズナンバーを演奏していたことから懇意になる。当時、まだギター1本で活動していた井上にはバンド編成でやってみたいとの願望があり、“ビコーズ”がバックを務めたが、程なく他のメンバーが抜けてしまったため、井上・来生の2人で、渋谷ジァン・ジァンや原宿RUIDOの他、関東近辺のライヴやラジオ番組に出演するようになった。ポール・マッカートニーの「Monkberry Moon Delight」等を披露していたが、来生は当時を振り返り、“習い立てのピアノで迷惑かけたんじゃないかな”と回顧している。“青い森”では古井戸やRCサクセションと顔を合わせることもあり、忌野清志郎とは2000年に共作(作詞:忌野清志郎/作曲:来生たかお)も実現させている。 2年程が経ち、井上がシングル「夢の中へ」を大ヒットさせる一方で、来生はアルバイト暮らしを続けていた。そんな時、井上や小椋佳のディレクターをしていた多賀英典と知り合い、井上のファーストアルバム『断絶』にアコースティックギターで参加することになる。来生は、多賀との対面を導いた井上の存在はデビューの大きなきっかけであるとして、後々コンサートのMCやインタビューにおいて繰り返し回顧している。同時期、いずみたく、浜口庫之助等の作曲家の下へ弟子入り覚悟で曲の売り込みにも出向いているが、ほとんど門前払いの状態だったという。その後、多賀へデモテープの持ち込みを行うが、“レコードにするような良い曲はない”と、こちらもまた突っ撥ねられてしまう。自信があったが故に大きなショックを受けた来生だったが、この人に認められなければ他へ行っても駄目だろうと思い、諦めなかった。来生えつこによれば、多賀も参ってしまうくらいの粘り強さだったという。やがて、スタジオへの出入りを許され、後に「およげ!たいやきくん」を作曲することになる佐瀬寿一と互いの曲を手伝いながらデモテープ作りに励み、同時に社員としてインスペクターをこなす日々が暫く続くことになる。ちなみに、インスペクターの業務として羽田健太郎にピアノを依頼したことがあったという。 このままインスペクターのまま生きて行くのかと思っていた頃、デモテープ内の1曲「酔いどれ天使のポルカ」が多賀に認められ、亀渕友香への提供曲に採用される。さらに1974年11月5日、後に高田真樹子も歌うことになる「終止符」を聴いた多賀から“君のレコードを作ろうと思っている”との一報が入った。ヴォーカルの未熟さを自覚しつつも、自作曲に最も適しているのは自分の声だと感じ、レコードデビューを思い描いていた来生は、この言葉にはいたく感動したという。かくして、書きためていた楽曲の中から50曲をデビュー候補曲として録音する運びとなり、遂に“シンガーソングライター・来生たかお”の誕生へと走り出すことになる。
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