デカンへの長期遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 07:02 UTC 版)
「アウラングゼーブ」の記事における「デカンへの長期遠征」の解説
1680年4月、アウラングゼーブにとって悩みの種であり続けたマラーター王シヴァージーが死亡した。その後を継いでマラーター王となったのはシヴァージーの息子サンバージーである。 一方、帝国とラージプートとの戦争は続いていたが、1681年1月にアウラングゼーブの四男アクバルがアウラングゼーブとの対立からラージプートに味方し、反旗を翻した。だが、アウラングゼーブは自らこの反乱を鎮圧し、敗れたアクバルはマラーター王国へと逃げた。同年9月、帝国とメーワール王国との間に講和が成立し、アウラングゼーブはマラーター王国を追討するため、デカン地方への南下の準備を行った。この地域はムガル帝国が大規模な軍事行動を行うことが出来る唯一の地帯であった。 そして、同月にアウラングゼーブはデリーを出陣し、皇帝親征の大軍を以てデカン地方へと大挙南下を開始した(デカン戦争)。11月、アウラングゼーブはデカンの入り口ともいえる要衝ブルハーンプルへと到着し、そこからさらに南へと進撃した。その後、アウラングゼーブはアウランガーバードを陣頭指揮をふるう滞在地とし、サンバージー率いるマラーター軍と戦ったが、その戦いは4年間ずっと平行線であった。 そのため、アウラングゼーブはデカンで未だ命脈を保っていたビジャープル王国とゴールコンダ王国に標的を変えた。長い包囲戦を経たのち、1686年9月にビジャープル王国を、翌1687年9月にはゴールコンダ王国を制圧し、これらを併合した。だが、このときアウラングゼーブはゴールコンダ王国の版図にあったヒンドゥーの二つの大寺院、オリッサのジャガンナート寺院と南インドの聖地ティルパティの寺院を破壊することはなかった。これは征服まもない地域のヒンドゥー教徒の住民から反感を買い、抵抗を受けぬよう一定の配慮をしたのだという。 その後、アウラングゼーブは再びマラーターとの戦いに戻り、1689年2月にマラーター王サンバージーを奇襲攻撃によりサンガメーシュワルで捕らえ、同年ビーマー河畔トゥラープルで処刑した。同年にはマラーターの拠点ラーイガド城も落とし、サンバージーの息子シャーフーを捕らえた。彼はムガル帝国の宮廷で育てられることとなった。危機に陥ったマラーター王国はサンバージーの弟ラージャーラームをマラーター王とし、デカンを逃げ南インドのシェンジ(ジンジー)を拠点とした。 こうして、1689年までにアウラングゼーブはデカンを制圧し、帝国の4分の1に当たる領土を版図に加え、ムガル帝国の勢力は南インドにまで及んだ。ここまで一国家としてイスラーム国家の勢力が膨張したのは、トゥグルク朝のムハンマド・ビン・トゥグルク以来であった、フランシス・ロビンソンは語っている。 ここで注目すべきなのは、このデカン遠征で戦った帝国軍の兵士や軍司令官さえもが、帝国の民族構成上ほとんどヒンドゥー教徒だったことである。ヒンドゥー教徒を弾圧していたアウラングゼーブは、実は多数派のヒンドゥー教徒の助力なしには領土を拡大することはできなかったのだ。なんとも矛盾した話である。
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