デカン・南インドへの遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/10/26 13:04 UTC 版)
「マリク・カーフール」の記事における「デカン・南インドへの遠征」の解説
アラー・ウッディーンのもと、マリク・カーフールは出世していき、やがてデカン地方、南インド方面における指揮官に任命され、それらの地に侵攻した。 1307年、マリク・カーフールは貢納を怠るなど翻意を見せていたデカンのヤーダヴァ朝に遠征して、首都デーヴァギリを落とし、その君主ラーマチャンドラをデリーへと送還した。以降、ヤーダヴァ朝の首都デーヴァギリはハルジー朝の南インド進出の拠点とされた。 1309年、マリク・カーフールは再び南へと遠征に出て、ヤーダヴァ朝の首都デーヴァギリに入城し、それ以南のヒンドゥー王朝への攻撃の準備を行った。 1310年、マリク・カーフールはデカン南東部のカーカティーヤ朝へと攻め入り、首都ワランガルを落とした。君主プラターパルドラ2世から貢納を受け、そののちも定期的に貢納するよう強要した。その後、6月にデリーへと帰還した。 同年11月、マリク・カーフールは再び南インドへの遠征を開始し、1311年2月(1310年とも)には南インドのホイサラ朝の首都ドーラサムドラも攻め落とし、その君主バッラーラ3世にも貢納の義務を課した。マリク・カーフールはその降伏の際、莫大な財宝を受け取ったという。 マリク・カーフールがホイサラ朝を侵略しているさなか、南インドのマーバール(タミル地方)を支配していたパーンディヤ朝ではすでに内紛が起きており、ジャターヴァルマン・スンダラ・パーンディヤとジャターヴァルマン・ヴィーラ・パーンディヤの2王子の兄弟が争っていた。スンダラ・パーンディヤは1310年に父王マーラヴァルマン・クラシェーカラ・パーンディヤを殺害して王座を得たが、ヴィーラ・パーンディヤに首都マドゥライを追われ、スンダラ・パーンディヤがマリク・カーフールに援助を求めた。マリク・カーフールはヴィーラ・パーンディヤがホイサラ朝のバッラーラ3世を支援していたことを知っていたので、この援助に応じた。 1311年3月(1310年末とも)、マリク・カーフールはマーバールのパーンディヤ朝を攻め、首都マドゥライを攻撃したばかりか、至る所を略奪した。だが、パーンディヤ朝の支配者は出撃し戦わなかったためその軍隊を打ち破れず、毎年の貢租の合意も成されず、遠征は失敗に終わった。とはいえ、ここでもチダンバラム寺院(マドラス近郊)を略奪するなどして莫大な財宝を獲得し、彼はラーメーシュワラムまで進撃して、この地にモスクを建設し、アラー・ウッディーンの名で金曜礼拝のフトバを唱えたという。 その後、マリク・カーフールは莫大な戦利品を携えて南インドからデリーへ向けて出発し、バラニーの記述によると同年初めにデリーへ帰還したという。だが、デリーまでの移動距離を考えると、実際のところ帰還したのは、同年10月ごろであると考えられる。この遠征で得られた戦利品について、バラニーの記述では、612頭の象、多量の金と宝石類、2万頭の馬であったという。このマリク・カーフールの南方遠征の主要な目的は財貨の獲得にあり、永続的な支配を意図したものではなかったが、多くの従属国を得た点から版図を拡大したともとることが出来る。 ただ、諸国に毎年の貢納を行わせるには、毎年の南方遠征が必要であった。ヤーダヴァ朝はラーマチャンドラが没したのち、シャンカラデーヴァがハルジー朝に反抗するようになり、1313年にはマリク・カーフールは再び遠征し、デーヴァギリを再び制圧した。だが、マリク・カーフールが帰還すると、新たな君主ハラパーラデーヴァもまた、ハルジー朝から独立を宣言した。
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