デカン地方における勢力拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 07:02 UTC 版)
「アウラングゼーブ」の記事における「デカン地方における勢力拡大」の解説
1652年7月17日、アウラングゼーブはデカン総督に再任され、北西インドからデカン地方へと赴いた。 1653年、アウラングゼーブはファテーナガルをアウランガーバードと改名し、この地を自身の拠点とした。以後、アウランガーバードは長らくこの地域における帝国の拠点ともなった。 1656年、ゴールコンダ王国で君主アブドゥッラー・クトゥブ・シャーとその大臣ミール・ジュムラーが不仲になり、ミール・ジュムラーはアウラングゼーブに帰順を申し出て、ゴールコンダ王国への侵入を促した。アウラングゼーブもまた、この地域に帝国の勢力を拡大するため、ミール・ジュムラーの帰順を受け入れ、強行軍でダウラターバードからゴールコンダ王国の首都ハイダラーバードへと向かった。 だが、ゴールコンダ王アブドゥッラー・クトゥブ・シャーは難攻不落のゴールコンダへと逃げたため、1657年1月からアウラングゼーブは城に激しい攻撃を加えた。2ヶ月以上にわたる攻撃により、ゴールコンダは陥落寸前に陥ったが、ここで包囲は長引いている伝え聞いたシャー・ジャハーンから包囲を解くように命令された。この命令は、アウラングゼーブがゴールコンダ王国を滅ぼしてさらに強大化するのを恐れた兄ダーラー・シコーと姉ジャハーナーラー・ベーグムが、シャー・ジャハーンを動かして出させたものであった。 アウラングゼーブはといえど、父帝の命令には逆らえず、4月13日にゴールコンダの包囲を解き、ゴールコンダ王国はその命脈を保った。しかし、アウラングゼーブはゴールコンダ側に莫大な賠償金を課し、そればかりか自身の長男スルターンをアブドゥッラー・クトゥブ・シャーの後継にすると約束させ、王の長女をその妃に差し出すよう命じた。 ミール・ジュムラーの帰順もまた、このとき家族や自身の軍隊とともに立ち退くことを認められ、アウラングゼーブとともに王国を去った。アウラングゼーブとミール・ジュムラーはその道中ビジャープル王国を通過したが、その際に同国で最も大規模な城塞ビーダルを落として手中に入れ(ビーダル包囲戦)、ダウラターバードへと戻った。 フランスの旅行家フランソワ・ベルニエによると、アウラングゼーブとミール・ジュムラーの二人はダウラターバードで固い友情に結ばれ、アウラングゼーブは一日に二度ミール・ジュムラーの顔を見ずには生きていけず、ミール・ジュムラーもアウラングゼーブにまた会わずには一日を過ごせなかったのだという。ベルニエはまた、ミール・ジュムラーとの結びつきが、「アウラングゼーブの王座を築く上での最初の礎石となった」と記している。 そののち、ミール・ジュムラーはシャー・ジャハーンに面会するため、妻子ら家族とともにアウラングゼーブのもとを離れ、多数の贈答品を携帯してアーグラへ赴いた。シャー・ジャハーンに面会した際、ミール・ジュムラーはゴールコンダの豊かさを証明するため巨大なダイヤモンドであるコーヒ・ヌールを贈呈し、岩山のカンダハールよりはデカン方面へと兵を進め、コモリン岬まで制圧するよう進言した。シャー・ジャハーンはこの進言を受け入れ、ミール・ジュムラーの指揮の下で大軍を送ることにした。 だが、ここで皇帝の長男ダーラー・シコーがアウラングゼーブに兵力を注ぐことになると反対し、この企てを止めようとした。その結果、アウラングゼーブはデカン総督としてダウラターバードにとどまり戦争に一切関与しない、ミール・ジュムラーを総大将に全権を持つこと、その忠誠を保証するために彼の家族をアーグラに留めおくことが条件とされた。ミール・ジュムラーは仕方なくこの条件を受け入れてデカンへと進み、ビジャープル王国の領土へと入り、カリヤーン(カリヤーニー)の城塞を包囲した。
※この「デカン地方における勢力拡大」の解説は、「アウラングゼーブ」の解説の一部です。
「デカン地方における勢力拡大」を含む「アウラングゼーブ」の記事については、「アウラングゼーブ」の概要を参照ください。
- デカン地方における勢力拡大のページへのリンク