テッド・ヒューズ
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テッド・ヒューズ Ted Hughes |
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誕生 | 1930年8月17日![]() |
死没 | 1998年10月28日(68歳没) |
職業 | 詩人・児童文学作家 |
主な受賞歴 | ガーディアン賞(1985年) ストルガ詩の夕べ金冠賞(1994年) |
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テッド・ヒューズ (Ted Hughes, OM, 本名:Edward James Hughes,1930年8月17日 - 1998年10月28日)は、イギリスの詩人、児童文学者。1984年から死亡するときまでイギリスの桂冠詩人であった。
生涯
ウェスト・ヨークシャーで生まれた。実家はたばこ屋を営んでいた。10歳年上の兄、2歳年上の姉がいる。
ケンブリッジ大学ペンブルック・カレッジで英文学と人類学、考古学を学ぶ。初めての詩作を発表したのもこの頃である。仲間内のパーティーで、アメリカからの留学生シルヴィア・プラスと出会い、それからわずか四ヶ月後の1956年6月16日に二人は結婚した。
一年後、夫妻はアメリカのマサチューセッツ州西部に移り住んだ。テッドとシルヴィアはそれぞれ、アマースト大学とスミス大学で働いた。ボストンでの生活の後、1959年10月に二人はロンドンへ戻り、デヴォンへ移った。子供も二人生まれていた。しかし、1962年の秋には二人の不仲は修復しがたいほどになっていた。1963年、シルヴィアは二人の子供を残してキッチンのガス栓をひねって自殺した。
テッドは妻の死後も、以前からの不倫相手だった愛人のアッシア・ウェーヴィルとデヴォンの自宅、コート・グリーンに住み続けた。妻の遺した文学作品における管理責任者となっていた。1966年、彼は「エアリアル」を含む彼女の原稿を出版した。二人がともに過ごした最後の時期を含む、シルヴィアの日記の最後の部分がなくなっていると彼は言っているが、意図的に破棄したのか、本当に失われたのか、不明である。
シルヴィアの作品が高く評価されるにつれ、テッドとの不幸な夫婦生活が議論の対象となり、特にシルヴィアを援護するフェミニストらから、テッドは「殺人犯」として攻撃された。彼は公的に発言することを一切せず、最後の作品「バースデイ・レターズ」で二人のいびつな関係について暗示したのみである。
シルヴィアが自殺した6年後の1969年3月25日、アッシア・ウェーヴィルは自ら睡眠薬をあおり、わずか4歳の娘アレクサンドラ・タチアナ・エロイーズ・ウェーヴィル(テッドとの子供である)と共に、キッチンのガス栓をひねって心中した。締め切られた台所にはガスが充満し、敷かれたマットレスの上に二人は横たわっていた。
テッドは、1970年8月に以前より不倫関係だった愛人で看護婦のキャロル・オーチャードと再婚した。彼女とは一生を添い遂げた。ガンで死去するまで、コート・グリーンに住んでいた。彼の葬儀はノース・タウトン教会でおこなわれ、シェイマス・ヒーニーが弔辞を読んだ。遺灰はダートムーアに撒かれた。
作品
- The Hawk in the Rain(1957)
- Wodwo(1967)
- Crow(1970)
- Flowers and Insects(1986)
- Birthday Letters(1998)
児童向け作品
- The Iron Man (1968)
- What is the Truth? (1984)(ガーディアン賞受賞)
- The Iron Woman (1993)
訳書
- 『鉄の巨人と宇宙こうもり』神宮輝夫訳 講談社 1971
- 『クロウ 鳥の生活と歌から』皆見昭訳 英潮社事業出版 1978
- 『クジラがクジラになったわけ』河野一郎訳 旺文社ジュニア図書館 1979/岩波少年文庫 2001
- 『アイアンマン 五つの夜の物語』橋本雄一訳 篠崎書林 1980
- 『ネス湖のネッシー大あばれ』丸谷才一訳 小学館 1980 歴史的仮名づかひの絵本
- 『テド・ヒューズ詩集』片瀬博子編訳 土曜美術社 1982 世界現代詩文庫
- 『詩の生まれるとき』沢崎順之助訳 南雲堂 1983
- 『アイアン・マン 鉄の巨人』神宮輝夫訳 講談社 1996
- 『そらとぶいぬ』長田弘訳 メディアファクトリー 1999
- 『誕生日の手紙 詩集』野仲美弥子訳 書肆青樹社 2003 世界詩人叢書12
関連書籍
- 皆見昭『詩人の素顔 シルヴィア・プラスとテッド・ヒューズ』研究社出版 1987
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テッド・ヒューズ
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「アーシャ・ウィーヴィル」の記事における「テッド・ヒューズ」の解説
詩人のテッド・ヒューズとシルヴィア・プラス夫妻は1961年に、ロンドンのプリムローズ・ヒル近く、チャルコット・スクエアにある2人が所有していたフラットをアーシャとデイヴィッドのウィーヴィル夫妻に貸し、自分たちはデヴォンのノース・トートン村(英語版)の一軒家を取った。ヒューズはアーシャに何かしら感じるものがあり、それはアーシャのほうも同じだった。後年になって、この出会いをヒューズは次のように回想している。 We didn't find her - she found us. She sniffed us out... She sat there... Slightly filthy with erotic mystery... I saw the dreamer in her Had fallen in love with me and she did not know it. That moment the dreamer in me Fell in love with her, and I knew it. プラスは自分の夫とアーシャの相性がいいのに気づいた。その直後、テッドとアーシャの関係は深まった。 1963年にプラスがキッチンでガス栓をひねって一酸化炭素中毒で自殺したとき、アーシャはヒューズの子どもを妊娠していたが、プラスが亡くなった数週間後に中絶した。プラスの親友であったエリザベス・ジグムントが1999年に当時のことを回想したところによると、プラスはアーシャの妊娠に気づいていたのであろうという。ただし、彼女たちの人間関係が実際のところどのようであったか、誰が彼女たちの行動に動機付けを与えたか、その行動を取り巻く状況については、熱い議論が長年続いている。2015年10月に放映された BBC Two のドキュメンタリ Ted Hughes: Stronger Than Death は、ヒューズの生涯と作品を検証した。その中ではアーシャ・ウィーヴィルが及ぼした影響についても検証された。 アーシャは1965年3月3日、37歳のときにテッド・ヒューズとの間にできた娘のアレクサンドラ・タチヤーナ・エロイーズ(Alexandra Tatiana Eloise)を出産する。デイヴィッド・ウィーヴィルとの法的な婚姻関係はまだ続いていた。娘は「シューラ」(Shura)の愛称で呼ばれた。 1967年にヒューズはアーシャをコート・グリーンに連れて来た。コート・グリーンはヒューズがプラスと共に購入したノーストートン村の一軒家である。その家でアーシャはシューラの育児はもちろんのこと、ヒューズとプラスの間に生まれた2人の子ども、フリーダとニコラスの育児もした。アーシャは以前にプラスの持ち物だったものを使い始めており、プラスの記憶が頭から離れなかったという説がある。しかしながら、アーシャ・ウィーヴィルの伝記 Lover of Unreason の著者は、彼女がプラスの物を使ったのは強迫観念に駆られての行動ではなく、むしろ実用のためであったと主張する。伝記の著者によると、アーシャはヒューズと2人の子どものために家事を切り盛りしており、単に既にあるものを使ったに過ぎないという。
※この「テッド・ヒューズ」の解説は、「アーシャ・ウィーヴィル」の解説の一部です。
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