ティコ・ブラーエ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 22:06 UTC 版)
「決してマネしないでください。」の記事における「ティコ・ブラーエ」の解説
天空の城ラピュタのモデルになった天空の城ウラニボリで観測を行った天文学者で占星術師。
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ティコ・ブラーエ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 00:52 UTC 版)
「天球儀 (恒星)」の記事における「ティコ・ブラーエ」の解説
デンマーク人天文学者ティコ・ブラーエは1562年、15歳の時にライプツィヒで法学の勉強を始め、そこで初めて天球儀を入手した。こぶし大の小さな天球儀であったが、ティコはこの天球儀を使いながらすぐにすべての星座を覚えた。これはティコが購入もしくは製作した最初の天文器具であった。 1576年、ティコはヴェン島にウラニボリ天文台を建設したが、そこには数台の天球儀が設置されていた。これらの天球儀の機構はおそらくティコ自身が作成したと考えられ、中でも 1.5 m の直径をもつ大天球儀 Globus Magnus Orichalcius が最も有名であった。この天球儀は1570年、ティコがアウクスブルクの業者に木製の大型天球儀を発注したものであるが、デンマークに輸送されるまで5年かかり、木材にひび割れが入って完全な球形ではなくなってしまった。ティコは生じた誤差を修正したあと、2年間かけて木材が夏冬の温度変化に耐えられることを確認し、さらに全体を薄い真鍮の板で覆って接合部も平らに均して見えなくし、星座・赤道・極を書き入れさらにもう1年かけて耐久確認を行ってこれを完成させたのである。 天球儀は強固な鉄のフレームにマウントされ、上部には水平線を表す幅広の板がありその内側に子午線環が接続されていた。極と水平線の間には可動式の真鍮製四分儀が設置され、四分儀と水平板には度・分単位で方位角と高度が記されていた。 ティコの天文学者としての大きな功績は、共同研究者とともに恒星および惑星の位置を非常に正確に測定したことにある。彼の雇った人の中にはのちに17世紀最大の天球儀製造者の一人となるウィレム・ブラウがいた。この大天球儀上に次から次へと星々の位置が確定され、その数は1000を超えるに至った。 1597年にティコ・ブラーエはヴェン島を離れ、1599年プラハにて皇帝ルドルフ2世付きの占星術師・助言者としての地位を得た。ティコの機器類は大天球儀を含めすべてプラハに移されたが、ティコは1601年に死去してしまった。天球儀はその後の30年戦争によって戦利品としてデンマークに持ち帰られたが、1728年のコペンハーゲン大火によって失われてしまった。
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