ツガルーの虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/09 15:15 UTC 版)
1716年1月27日、サウスカロライナの者がツガルーに集まって、先にクリーク族の代表が到着し、チェロキー族がその12名の代表のうち11名を殺害したことを知った。チェロキー族は、クリーク族が実際には数百のクリーク族とヤマシー族の戦闘部隊であり、サウスカロライナ軍に対する急襲に成功するところだったと主張した。ツガルーで何が起こったか不明のままだった。サウスカロライナの立ち会い無しにチェロキー族とクリーク族が私的に会ったことは、チェロキー族がまだ、クリーク族に付いてサウスカロライナと戦うか、サウスカロライナに付いてクリーク族と戦うか、意見が割れていることを暗示していた。イギリスとの交易では比較的新参であったチェロキー族はクリーク族に替わってサウスカロライナの主要な交易協力者になることを期待していた可能性がある。背後にあったものはどうあれ、ツガルーの虐殺はポコタリゴの虐殺のように予想外に熱した議論の中から手詰まりを殺人で解決しようとしたと思われる。ツガルーの虐殺以後は、チェロキー族とクリーク族の間に戦争の2文字しかなく、またチェロキー族とサウスカロライナ議会との同盟も自明の事実となった。 チェロキー族のサウスカロライナとの同盟はクリーク族による大規模なサウスカロライナ侵略の可能性を奪った。同時に、サウスカロライナはクリーク族と平和的な関係を取り戻したいと願い、これ以上の戦争を望んでいなかった。サウスカロライナはチェロキー族に武器や交易品を供給する一方で、好戦的なチェロキー族が期待した軍事的支援は行わなかった。1716年と1717年にチェロキー族は勝利を挙げたが、クリーク族の反撃でクリーク族と戦おうというチェロキー族の意志を弱らせもした。元々チェロキー族の意志は割れていた。それにも拘わらず、クリーク族とチェロキー族は何世代も互いに小規模の戦いを繰り返してきていた。 ツガルーの虐殺とチェロキー族による攻撃に応えて、オーチェス・クリーク族は1716年早くに防衛的な戦略を採った。オクマルジー川盆地にあった集落全てをチャタフーチー川沿いに移動させた。オーチェス・クリーク族は元々チャタフーチー川沿いに住んでいて、1690年頃、サウスカロライナに接近するために、オクマルジー川とその支流オーチェス・クリーク(ここからクリーク族の名前が生まれた)沿いに集落を移した経緯があった。1716年にチャタフーチー川に戻ったことは撤退ではなく、以前の状態に戻ったことだった。チャタフーチー川とチャールズタウンの距離は、サウスカロライナからの攻撃から守ることでもあった。 1716年と1717年に、チェロキー族=イギリス同盟軍から大きな攻撃が無かったので、ローワー・クリーク族は自分達の力が上がったものと見なし、敵であるイギリス人、チェロキー族およびカトーバ族に対する襲撃を再開した。しかし、イギリスとの交易から切り離されて、弾薬や武器の補充に困難を極めるようになった。一方チェロキー族はイギリスの武器を十分に供給されていた。イギリスとの交易に対する誘惑はクリーク族の間の反英感情を弱らせていった。1717年早く、チャールズタウンから数名の施設がローワー・クリーク族の領地に行き、また数人のクリーク族がチャールズタウンに行って、暫定的に和平に導く過程を始めた。同時に他のローワー・クリーク族は戦いを続ける方法を探していた。1716年遅く、多くのマスコギ・クリーク族の代表がニューヨークのイロコイ連邦に旅していた。クリーク族の外交使節に心を動かされたイロコイ族は、20名の外交使節を帰途に就くクリーク族と共に送り出した。イロコイ族とクリーク族は、カトーバ族やチェロキー族といった互いの敵であるインディアン部族に対する攻撃に主要な関心があった。しかし、サウスカロライナにとっては、イロコイ族とクリーク族の間の同盟は、何をおいても避けるべきものであった。これに応えるためにサウスカロライナは1群の外交団を大きな荷車に積んだ交易品の贈り物と共にローワー・クリーク族の集落に送り込んだ。
※この「ツガルーの虐殺」の解説は、「ヤマシー戦争」の解説の一部です。
「ツガルーの虐殺」を含む「ヤマシー戦争」の記事については、「ヤマシー戦争」の概要を参照ください。
- ツガルーの虐殺のページへのリンク