クリーク族とチェロキー族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/09 15:15 UTC 版)
「ヤマシー戦争」の記事における「クリーク族とチェロキー族」の解説
オーチェス・クリーク族はヤマシー族よりも戦争の扇動者として動いた可能性があった。戦争が始まると直ぐに領地内にいた交易業者を殺した、他のクリーク族、チョクトー族、チカソー族およびチェロキー族も従った。 オーチェス・クリーク族の領地とサウスカロライナの開拓地との間に、ユチ族、サバンナ川ショーニー族、アパラチー族およびアパラチコラ族といった少数の部族が住んでいた。1715年の夏、これら少数部族がサウスカロライナを攻撃して幾つかの成功を収めた。これらの攻撃にオーチェス・クリーク族も加わっていた可能性があるが、サウスカロライナの反撃が効果的であることが分かると、概して慎重な態度を採った。小さな部族はサバンナ川地域に逃げ、オーチェス・クリーク族を避難場所としたが、ここで戦争の次の段階の作戦を練った。アッパー・クリーク族はまだサウスカロライナに対する戦争への参加を決めていなかったが、オーチェス・クリーク族を強く尊敬しており、条件が整えば侵略に加わろうと考えていた。当面の問題は交易品であった。武器のようなサウスカロライナから得られるイギリス製品は、全てのクリーク族にとって必需品であった。イギリスとの戦争という事態になって、クリーク族はフランスやスペインを他の商品供給源として見るようになった。フランスとスペインは喜んでクリーク族に供給したいと考えたが、イギリスが供給していたと同じ程度の量や質を確保することが出来なかった。マスケット銃、火薬および銃弾は、クリーク族がサウスカロライナを侵略しようとすれば是非とも必要なものだった。アッパー・クリーク族は参戦を躊躇していた。それにも拘わらず、クリーク族はヤマシー戦争の間、フランスとスペインに密接な関係を築いていた。 オーチェス・クリーク族にはチカソー族およびチェロキー族と関係があった。しかし、チカソー族はイギリス人交易業者を殺した後で、サウスカロライナと直ぐに停戦していた。チカソー族はクリーク族の集落で交易業者を殺害したことを糾弾し、下手な言い訳ではあったが、サウスカロライナはこれを受け入れた。チェロキー族の位置付けが戦略的に重要となった。 チェロキー族も2つに割れていた。概してサウスカロライナと密接に暮らしていたローワー・チェロキー族が戦争を支持する傾向にあった。カトーバ族がサウスカロライナのサンティー川開拓地を襲った時に参加した者もいた。サウスカロライナからは離れて住んでいたオーバーヒル・チェロキー族はサウスカロライナとの同盟を支持しており、クリーク族との戦いにも参加する意向だった。サウスカロライナとの同盟に最も熱心なチェロキー族指導者の一人は、ミドル・チェロキー族集落の酋長シーザーであった。 1715年遅く、2人のサウスカロライナ交易業者がチェロキー族を訪れ、多数のチェロキー族代表を連れてチャールズタウンに戻ってきた。同盟が結ばれ、クリーク族に対する作戦が練られた。しかし、翌月、チェロキー族は予定されていたサバンナタウンでのサウスカロライナとの会合に出て来られなかった。サウスカロライナは300名以上の遠征隊をチェロキー族集落に派遣し、12月に到着した。彼らは別れてローワー、ミドルおよびオーバーヒルの主要集落を見て歩き、チェロキー族が割れていることが直ぐに分かった。この冬の間、チェロキー族指導者のシーザーはチェロキー族集落を歩き回り、クリーク族に対する戦争の支援を説いて回った。同じ時期にチェロキー族の権威があり尊敬されている指導者達が注意と忍耐を促した。この中にはサウスカロライナから「魔術師」と呼ばれるチャリティ・ハゲイがいた。チャリティ・ハゲイはサウスカロライナに近いローワー・チェロキーの集落ツガルーの出身であった。ローワー・チェロキー族の多くがサウスカロライナとの停戦の用意があったが、ユチ族やサバンナ川ショーニー族以外の者と戦うことを躊躇していた。 サウスカロライナの人々は、ローワー・チェロキー族からクリーク族に「休戦の旗」が送られ、クリーク族の代表が来ることを約束したと告げられた。チャリティ・ハゲイとその支持者がクリーク族とサウスカロライナの間の和平交渉を斡旋しているように思われた。彼らはサウスカロライナに戦争の計画を変えるよう説得した。サウスカロライナはそうはせずに、冬の間にシーザーや戦争に賛成なチェロキー族を制止しようとしていた。
※この「クリーク族とチェロキー族」の解説は、「ヤマシー戦争」の解説の一部です。
「クリーク族とチェロキー族」を含む「ヤマシー戦争」の記事については、「ヤマシー戦争」の概要を参照ください。
- クリーク族とチェロキー族のページへのリンク