ポコタリゴの虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/09 15:15 UTC 版)
オーチェス・クリーク族を巻き込むインディアン蜂起の可能性がサウスカロライナ政府に警告されたとき、重大なこととされた。即座にアッパー・ヤマシーのポコタリゴ集落(今日のヤマシー近く)に1群の人々が派遣され、オーチェス・クリーク族の指導者との緊急会議を整えてくれることをヤマシー族に望んだ。この代表団のポコタリゴ訪問が戦争の引き金になった。 ポコタリゴを訪れた代表団は、理事会に派遣されたサミュエル・ワーナーとウィリアム・ブレイであった。さらにサウスカロライナのインディアンとの交易における重要人物であるトマス・ネアンとジョン・ライトの2人が加わった。またセイモア・バーローズと名前の知られていないサウスカロライナ市民2人も加わった。1715年4月14日の夕刻、聖金曜日の前日に、代表団はヤマシー族の代表と話し合い、ヤマシー族の不満を軽減する特別の努力をすることを約束した。クレイブン知事自らそれを実行すると告げた。 その夜、サウスカロライナの代表達が眠っている間に、ヤマシー族は何をすべきかを議論した。戦争に全面的に賛成しない者もいたが、最後に結論が出された。ヤマシー族は戦いの化粧を体に施し、サウスカロライナの代表を起こした。6名の代表の中2名が逃亡した。セイモア・バーローズが逃亡し、途中で2度撃たれたが、なんとか逃げ延びてポート・ロイヤル開拓地に警告を伝えた。ネアン、ライト、ワーナーおよびブレイはすべて殺された。名前の知られていないサウスカロライナ市民は逃げて近くの沼地に隠れ、そこからトマス・ネアンが長く拷問されて死ぬ光景を目撃した。 1715年4月15日聖金曜日の早朝の出来事がヤマシー戦争の始まりであった。
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