チャイコフスキーの死後
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「チャイコフスキーの家博物館」の記事における「チャイコフスキーの死後」の解説
チャイコフスキーがこの世を去ると、彼の弟で劇作家、翻訳家であったモデスト・チャイコフスキーがロシアでは初となる音楽と追悼の博物館を創設することを決めた。チャイコフスキー作品の権利を有していた作曲家の甥にあたるウラジーミル・ダヴィドフも事業に加わった。彼らは家屋をそのまま保存できるように別の棟を建設し、チャイコフスキーの楽譜、自筆譜、蔵書の保管庫を準備した。モデストは1916年に死去する際、博物館をロシア音楽協会のモスクワ支部へと遺贈した。さらに、ザルツブルクのモーツァルト博物館、ボンのベートーヴェン・ハウスの運用規則に厳密に従うよう求めた。 1917年、十月革命の勃発後、ドロシェンコという無政府主義者が家族と共に博物館に住みつき、寝室のひとつの壁にかけられていた教皇イノケンティウスの肖像画に向けて発砲したとされる。ドロシェンコは1918年4月にようやく逮捕された。1918年に教育人民委員部(英語版)の保護施設に位置づけられ、1921年には国有化された。 1941年6月、ナチス・ドイツのソビエト侵攻が始まると、博物館の記念品コレクションや蔵書はウドムルト共和国のチャイコフスキーの生地、ヴォトキンスクの小さな村に移送されることになった。1941年から1942年のモスクワの戦いでは家屋はドイツ軍に占領され、1階は二輪車の駐車場、2階は兵舎として利用された。1944年の暮れには展示品が戻され、チャイコフスキーの誕生日前日にあたる1945年5月6日、博物館は営業を再開した。 1920年代には毎年5月7日にチャイコフスキーの誕生日を祝って音楽家が博物館に集い、演奏を行うのが習わしとなっていた。ウラディミール・ホロヴィッツなどの著名ピアニストには、チャイコフスキーのサロンで彼のグランドピアノを演奏できる栄誉が与えられた。1958年から開催されているチャイコフスキー国際コンクールの優勝者、ヴァン・クライバーン(1958年)、ミハイル・プレトニョフ(1978年)、ボリス・ベレゾフスキー(1990年)らもクリンに招かれてチャイコフスキーのピアノを演奏している。コンクールに出場した音楽家らが庭にオークを植える習慣もある。 1964年には家の近くにコンサートホール、展示エリア、ビジターセンターが開設された。
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