チャイコフスキーの家の内部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/02 04:47 UTC 版)
「チャイコフスキーの家博物館」の記事における「チャイコフスキーの家の内部」の解説
家屋は1870年代にV.S.サハロフによって建築された。土地はニコライ1世よりサハロフの一家に贈られたものであったが、一家が使用することはほとんどないままチャイコフスキーへ貸し渡され、その後売却された。チャイコフスキーはその2階に居住し、1階には使用人のアレクセイ・ソフロノフ(Alexei Sofronov)とその家族が住んだ。キッチンとダイニングも1階にあった。 応接室と書斎は2階のピアノが置かれた部屋で、建物中で最大の部屋である。ピアノはベッカー製で、チャイコフスキーがはじめてマイダノヴォにやってきた1885年にサンクトペテルブルクの会社から彼に贈られた楽器である。チャイコフスキーはコンサートホールで聴衆に向けてピアノを弾くことはなかったが、家では訪問客に弾いて聴かせることもあり、訪れた音楽家とは重奏を楽しんだ。彼は夕べの余興として多くの場合文学作品の音読も行っていた。 チャイコフスキーが毎朝食後に手紙を書いていた書き物机は部屋の端に置かれている。机を見下ろす位置にはサンクトペテルブルク音楽院の創設者で彼に楽器法と作曲を最初に教えたアントン・ルビンシテインの肖像画が掲げられている。ルビンシテインの真下の位置にある肖像画はルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのものである。他の壁面は彼の家族、とりわけ父のイリヤ・ペトロヴィチ・チャイコフスキーと母のアレクサンドラ・アンドレーエヴナを写した多くの写真で飾られている。近くには2つの本棚があり、音楽関係のコレクションとロシアや国外の文学作品、そして購読していた雑誌の束が縛られた状態で収められている。部屋にある他の棚はチャイコフスキーへの贈り物で溢れており、そうした中には彼のアメリカ訪問中に贈られた自由の女神像の形をしたインク壺もある。 寝室は応接間とカーテンで仕切られた入口を隔てて隣接している。チャイコフスキーはこの部屋の未塗装の机に向かい、庭を見やりながら音楽を生み出していた。カレリア樺の机は彼がはじめてクリンに移ってきた際にマイダノヴォの村の職人の手で作られたものである。この机の上で彼の最後の大作、交響曲第6番『悲愴』は作曲されていった。
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