チャイコフスキーとの関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/02 04:13 UTC 版)
「マックス・エルトマンスデルファー」の記事における「チャイコフスキーとの関わり」の解説
エルトマンスデルファーはチャイコフスキーと重要な関係にあった。チャイコフスキーは彼について「大げさなニュアンスによって大衆の好みを満足させようとする傾向」があり、また「ロシアの音楽(私のものは除くが)に対してぞんざいな態度を取る」と書き記しながらも、彼を「非常に技術に長けた、経験ある、熟練の指揮者」であるとみなしていた。チャイコフスキーはモスクワで、彼に以下の作品の初演を任せている。 交響曲第1番 (1883年12月1日 改訂版) デンマーク国歌による祝典序曲 (1883年12月1日) 組曲第2番 ハ長調 (1884年2月16日)チャイコフスキーは前夜にオペラ『マゼッパ』の初演に出席しており、極度に神経を疲弊させたため、組曲第2番の初演を聴かずにベルリンとパリへの旅路に就いてしまう。作曲者が不在となったことは、エルトマンスデルファーにとっていささか癇に障る事態となった。 ピアノと管弦楽のための協奏的幻想曲 (1885年3月6日) マンフレッド交響曲 (1886年3月11日) チャイコフスキーの『組曲第3番』はエルトマンスデルファーに献呈されており、彼は1885年1月にモスクワ初演を行ったが、これはハンス・フォン・ビューローがサンクトペテルブルクで世界初演を行った数日後のことであった。エルトマンスデルファーが1881年10月30日、サンクトペテルブルクでのチャイコフスキーの「弦楽セレナーデ Op.48」の初演を行ったとする文献があるが、他の文献ではエドゥアルド・ナープラヴニークが初演したとされている。エルトマンスデルファーがモスクワ初演を受け持った可能性はあるだろう。 チャイコフスキーは『ハープサルの思い出』の第3曲「無言歌」のエルトマンスデルファーの編曲を高く評価しており、1892年には自らこれを指揮している。エルトマンスデルファーはアントン・ルビンシテインのピアノ小品の管弦楽編曲も行っている。彼の自作曲は今日では忘れられている。 夫妻は1889年にドイツへ帰国し、ブレーメンに居を構えた後、1896年にミュンヘンへと移った。 エルトマンスデルファーはカール・オート(Carl Otho)が発明した5弦のコントラバスを導入した人物であると考えられている。
※この「チャイコフスキーとの関わり」の解説は、「マックス・エルトマンスデルファー」の解説の一部です。
「チャイコフスキーとの関わり」を含む「マックス・エルトマンスデルファー」の記事については、「マックス・エルトマンスデルファー」の概要を参照ください。
- チャイコフスキーとの関わりのページへのリンク