ダルムシュタットとベルリン・ドイツ・オペラの芸術総監督
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「ルドルフ・ゼルナー」の記事における「ダルムシュタットとベルリン・ドイツ・オペラの芸術総監督」の解説
1951年から1961年まで、ゼルナーはダルムシュタット州立劇場の芸術監督を務めた。ここで彼は1951年にエルンスト・バルラハの『ラツェンブルク伯爵』を初演している。また、ダルムシュタットでは当初は小規模な演劇学校を運営していた。1954年、卒業生の進路がうまく決まらず国の補助金が打ち切られたため、演劇学校は閉校せざるを得なくなった。同年、ベルリン国立劇場(現:ベルリン国立歌劇場)で『トロイラスとクレシダ』を、1959年にはルールフェスティヴァルで『嵐(テンペスト)』を監督した。1958年にはダルムシュタットでイヨネスコの『無給の殺し屋』を初演し、ブルク劇場ではソフォクレスの『オイディプス王』(1960年)、『アンティゴネ』(1961年)、『エレクトラ』(1963年)を上演している。 当時ゼルナーは古典演劇の代表的な監督と見なされていた。1960年代初頭にはオペラの演出に転向。1961年から1972年まで西ベルリンのベルリン・ドイツ・オペラの総監督兼チーフ・ディレクターを務めた。 1963年には東京の日生劇場のこけら落としで来日。演奏陣の豪華さもさることながら、初日のベートーヴェン『フィデリオ』において、真っ暗な舞台からフロレスタンの悲痛な叫びが聞こえ、第一幕で囚人の群れがうごめき呻ぐゼルナーの演出は、日本の聴衆に価値観がひっくり返る衝撃を与えた。数々の音楽誌等に高辻知義、内垣啓一、竹内昭一、渡辺護、宮内嘉久などが続々と記事を寄せ、その余韻は後々まで続いている。鈴木敬介は渡独してゼルナーに師事するまでに至った。 1964年には、彫刻家ハインツ・スピルカーからブロンズ胸像を授与された。 主な演出作品としては、ムソルグスキー『ボリス・ゴドゥノフ』(1971年、ベルリン)、アリベルト・ライマン『メルシーヌ』世界初演(1971年、シュヴェッツィンゲン音楽祭)、ベルク『ヴォツェック』(1971年、ザルツブルク音楽祭)、モーツアルト『イドメネオ』(1973年、ザルツブルク音楽祭)、ゴットフリート・フォン・アイネム『老婦人の訪問』(1975年、ミュンヘン国立劇場)、トーマス・ベルンハルト『狩猟仲間』(1974年、バーゼル劇場)などがある。 ゼルナーはテレビや映画にも関わっていた。1973年のマクシミリアン・シェル監督ドイツ-スイス映画『歩行者』ではゼルナーが主役(タイトルロール)を演じ、シェルが亡き息子役を演じた。 ゼルナーは1940年に女優マヌエラ・ブルーンと結婚し、1951年にイルゼ・ゼルナーと再婚した。前妻との間に二人の子供がいる。 1990年5月8日、バーデン=ヴュルテンベルク州ケーニヒスフェルト-ブルクベルクで死去。84歳没。
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