ダブリンの市街戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 10:12 UTC 版)
「アイルランド内戦」の記事における「ダブリンの市街戦」の解説
詳細は「ダブリンの戦い」を参照 1922年4月、ロリー・オコナー率いる反条約派がダブリンのフォー・コーツを占領し、ダブリン市内の緊張が高まった。 条約反対派は、イギリス軍との戦端を再び開けばアイルランドの民族主義者たちが一つになれると予想していた。しかし自由国の建国を決断し、困難な状況下でアイルランドの自治を進めていこうと試みていた条約賛成派の指導者たちにとって、彼らの行動は反乱に他ならなかった。マイケル・コリンズはフォー・コーツを占拠するグループに対し、その場を立ち去るように説得したが、オコナーらはこれを拒否、コリンズはフォー・コーツの砲撃を決断した。この決定の影には、イギリスによるアイルランド再占領の可能性を恐れていたコリンズの思惑があったとされる。フォー・コーツを巡る争いは、イギリス軍の撤退に伴い国中で発生していた騒乱の一つにすぎなかったが、結果的に内戦の開幕を告げる転換点となった。 イギリス軍から提供された火砲を用いて自由国軍の砲撃が開始されると、小火器しか持たない反条約派は数日間の抵抗の末に降伏した。この事件による混乱を突いて、アイルランド公文書館が爆破され、1000年もの歴史をもつアイルランド関連文書や宗教文書が灰となった。数名の反条約派指導者たち、アーニー・オマリーはかろうじて包囲を突破し、闘争を継続した。争いは激しさを増し、7月5日には反条約派のIRAがダブリンのオコンネル通りを占領し、その後1週間にわたり通りを巡って争いが継続した。この期間における犠牲者には、共和国派の指導者カハル・ブルハが含まれている。 ダブリンを巡る戦いが収束すると、自由国政府は首都の支配権を掌握し、反条約派はダブリンを離れ、アイルランド中に広がっていった。 内戦が開始されると、IRAは二派に分裂した。反条約派はIRAからより大きな支援を得たが、IRAには指揮系統、戦略、そして武器が欠けていた。彼らは防御的なスタンスをとらざるをえなかった。イギリス軍から火砲、飛行機、装甲車、機関銃、小火器、弾薬などを提供されていた自由国政府軍(英語版)は、非正規軍に対し圧倒的な優位にあった。内戦が終結する頃には兵士数は5万5千人を数えていた。コリンズ配下の指揮官は、ダブリンにおけるIRA支部の条約賛成派から選抜されており、The Squad(もしくは「十二使徒」)と呼ばれた暗殺専門の組織さえ存在した。内戦中に行われた残酷な行為の一部は、このグループによるものであった。自由国軍将校の多くはIRAの出身であったが、末端の兵士は第一次世界大戦をイギリス軍兵士として戦った帰還兵たちであった。
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