ダブリンでの音楽活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/31 18:38 UTC 版)
「ジョン・ケリー・シニア (フォーク・ミュージシャン)」の記事における「ダブリンでの音楽活動」の解説
1935年の公共ダンスホール法Public Dance Halls Act 1935以来ダンス音楽が低調となっていた中、ダブリンでジョンが開いた店は伝統音楽のミュージシャンにとって貴重な存在であり、市外から来たミュージシャンが立ち寄り出会う場として知られるようになった。 1936年に復活し、1946年にトーマス・ストリート (Thomas Street) へ移転したパイパーズ・クラブ (Pipers’ Club)は、当時のダブリンの伝統音楽の場の一つとなっていたが、ジョンはそこでの音楽への参加を通じてレオ・ロウサム(英語版)、トミー・レック (Tommy Reck) 、トミー・ポッツ(英語版)といったダブリンのミュージシャンと知り合っていった。 1959年にショーン・オリアダ (Seán Ó Riada) のバンド、キョールトリ・クーラン(英語版)の創設に参加した。 1960年代にはキャッスル・ケーリー・バンド (The Castle Ceilí Band) に参加しており、1965年フラー・キョールのケーリーバンド・シニア部門優勝時のメンバの一員である。 1960年代中頃から1980年代まで、ジョンは同じクレア県出身の友人であるフィドル奏者ジョー・ライアン (Joe Ryan) と共にダブリン市内メリオン・ロー (Merrion Row) のパブ、オドノヒューズ (O' Donoghues) にて、毎週金曜土曜の夜にセッションを行った。このセッションには、ウィリー・クランシー(英語版)、ボビー・ケイシー (Bobby Casey) 、デニス・マーフィー()、フェリックス・ドラン (Felix Doran) を始めとして、大変多くのミュージシャンが参加していた。 1971年、ショーン・オリアダの死を受けてエイモン・デ・バトラー(英語版)がキョールトリ・クーランの後継として結成したバンド、Ceoltóirí Laigheanにも参加している。 1973年に初めて開かれたウィリー・クランシー・サマー・スクールでは、フィドル・クラスの教師を担当している。 1975年に、トピック・レコード(英語版)からソロ・アルバムをリリース、現在まで多くのミュージシャンに影響を与えている。
※この「ダブリンでの音楽活動」の解説は、「ジョン・ケリー・シニア (フォーク・ミュージシャン)」の解説の一部です。
「ダブリンでの音楽活動」を含む「ジョン・ケリー・シニア (フォーク・ミュージシャン)」の記事については、「ジョン・ケリー・シニア (フォーク・ミュージシャン)」の概要を参照ください。
- ダブリンでの音楽活動のページへのリンク