タマル女王の治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 01:18 UTC 版)
ギオルギ3世の娘タマルは単独でグルジア史上初めての女王になり、その治世にグルジア王国は最盛期を現出した。彼女は王国をテュルク人から守っただけでなく、国内の緊張を和らげ、最初の夫ユーリー・ボゴリュブスキーが画策したクーデターも粉砕した。また、死刑と拷問の廃止など、彼女の時代にしては進歩的な政策もあった。 タマル女王の治世で特筆すべき事件としては1204年のトレビゾンド帝国成立がある。その年、東ローマ帝国が一時的に滅亡したため、女王は親族にあたるアレクシオス1世とその弟ダヴィドを援助し、帝国を建国した。タマル女王御用の歴史家によると、トレビゾンド援助の目的はアンティオキアとアトス山の修道院への送金の約束を破ったアレクシオス4世アンゲロスへの懲罰であるという。しかし、これには異説があり、アンゲロス王朝が第4回十字軍の侵攻で先が長くないのでグルジアの南西に友好的な国を建てた、という説もある。 タマル女王の治世の後半、王国は聖地におけるグルジア教会の保護に奔走した。 サラディンの伝記作者によると、1187年のアイユーブ朝によるエルサレム侵攻の後、タマル女王はサラディンに使者を送り、エルサレムでのグルジア教会の返還を要請したという。サラディンの返事は記録されていないが、女王の努力は結実した。さらに、サラディンに対しヒッティーンの戦いで奪われた聖十字架を20万の金塊で買い戻す提案をしたという。これは東ローマ皇帝が提案した金額よりも上であったが、サラディンは拒否した。 ラテン・エルサレム総大司教のジャック・ド・ヴィトリは当時、グルジア王国について書き残している: 「 東方にもキリスト教の人々がいる。彼らは戦いに強く、勇敢で、無数の力強い戦士がおり...異教徒の国に包囲され...彼らは聖ゲオルギオスを崇拝するので、グルジア人と呼ばれている...聖墳墓教会に巡礼に行くとき、彼らは行進して聖なる城に入る...誰にも通行料を払うことなく。それはサラセン人が彼らを侮辱できるわけないから... 」
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