セラシアの戦いとスパルタ占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/18 16:25 UTC 版)
「クレオメネス戦争」の記事における「セラシアの戦いとスパルタ占領」の解説
一方、アンティゴノスはアカイア人と共にテゲアを包囲戦の末占領し、オルコメノスおよびマンティネアを荒らし回り、ヘライアとテルプサを降伏させ、アカイア同盟の会議に出席するためにアイギオンへと向った。このため、クレオメネスの支配領域はラコニアだけになってしまった。そこで彼は戦力増強と金策のためにヘイロータイのうち5アッティカ・ムナを納入した者を自由民として認め、500タラントンの金と2000人の兵士を得た。彼は彼らをマケドニア式に武装させ、アンティゴノスの白楯隊への対抗部隊とした。その後、彼はメガロポリスを占領しようと考え、兵士には五日分の食料を持たせてセッラシアへと向かい、あたかもアルゴリス地方へと向わんとしているように見せかけた。そしてメガロポリス領へ転進し、部下のパンテウスに2タグマの部隊を授けてそこが手薄になっているとの情報が入っている二つの塔の間の城壁の占領を命じ、本隊はゆっくりと進めた。パンテウスは首尾よく任務を果たし、多くの住民を逃がしたもののメガロポリスを占領した(紀元前223年秋)。クレオメネスは最初はアカイア同盟からの脱退を条件にメガロポリス市には手をつけず、そのままにしておいたが、メガロポリス人のフィロポイメンがアカイア人に味方することを主張してクレオメネスを弾劾し、クレオメネスから降伏する代わりに市には手をつけないという条件を引き出したメガロポリス市民のリュサンドリダスとテアリダスを追い出したため、怒ったクレオメネスは市を徹底的に略奪し、破壊し、帰国した。 クレオメネスがメガロポリスを占領した頃、アイギオンでアカイア同盟の会議が催されており、アンティゴノスもそれに参加していた(紀元前224年9月)。彼はそこで自分の処置について説明し、これからの戦争をどう戦うかについて話し合い、そして全同盟軍の総司令官に任命された。ここで彼はピリッポス2世が設立したヘレネス同盟を「諸同盟の同盟」の名で復活させ、ギリシアの大部分の都市はそれに加入した。しかし、メガロポリスの占領とそれに続く破壊がアカイア人の耳に入ると、それはアカイア人たちに大きな衝撃を与えた。アンティゴノスはメガロポリス救援に取り掛かろうとしたが、彼の軍は既に越冬のため各ポリスに分散していて迅速には動けないため、ひとまず自身は越冬のために少数の手勢と共にアルゴスへと向った。 クレオメネスは次の手を打った。すなわち、彼はすぐには動けない敵の状況を見越してアルゴスへと向った。もしアンティゴノスが手向かってくれば一戦交える腹積もりであり、もしそうでないならアルゴスを助けられなかったという事実によってアンティゴノスへの信用を失わせ、彼とアルゴスの仲を裂けると考えた。事はクレオメネスの予想通りに進んだ。国土が荒されるのを見たアルゴス人たちはアンティゴノスの許に押しかけて戦いを要求したが、アンティゴノスは遂にクレオメネスの挑発には乗らなかった。クレオメネスは城壁の前でアンティゴノスを散々愚弄嘲笑した後、帰国した。 紀元前222年夏、アンティゴノスはマケドニアより軍勢を集め、アカイア軍と合流し、ラコニア侵攻を企てた。ポリュビオスによればその陣容は以下の通りである。マケドニア軍は重装歩兵10000人、軽装歩兵3000人、騎兵300騎、それに追加してアグリアネス人とガリア人各1000人、歩兵3000人と騎兵300騎から成る傭兵、アカイア軍は歩兵3000人と騎兵300騎、マケドニア式に武装したメガロポリス軍の1000人、ボイオティア軍は歩兵2000人と騎兵200騎、エピロス軍は歩兵1000人と騎兵50騎、イリリア人1600人。計歩兵28000人と騎兵1200騎。 対するクレオメネスはラコニアに入る全ての道の守りを固め、自らは20000人の軍を率いてセッラシアへと向い、両軍はセラシアにて激突した。この戦いでスパルタ軍は、スパルタ市民6000人中200人を残してことごとく戦死するという決定的な敗北を喫し、クレオメネスはスパルタへと逃げ帰った。
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