ズガバリッツァの調査: 1575
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「ベナンダンティ」の記事における「ズガバリッツァの調査: 1575」の解説
1575年の初頭に、男性のベナンダンティであり、イアッシコ村に住んでいるパオロ・ガスパルットがブラッツァーノ村に住む粉ひき家のピエトロ・ロターロに、正体不明の病気にかかっている彼の息子が治るための呪いを教えた。この出来事は地元の司祭であるドン・バルトローメオ・ズガバリッツァの興味を引き、このような民間信仰の使われ方に好奇心をそそられ、ガスパルットを彼のもとに呼び出し、詳しく話を聞いた。ガスパルットはズガバリッツァにその病気の子供は「魔女に取りつかれていた」が、その子供はベナンダンティ、もしくは「放浪者」としても知られている者たちのおかげで死なずに済んだ、と言った。ズガバリッツァはベナンダンティの同胞について、より詳しく明らかにした。それによると、「斎日の間の木曜日に魔女たちと一緒に様々なところ、イアッシコの教会の前や、ヴェローナの野原にさえ、コルモンスの中の場所に出掛けなければなら」ず、そこで彼らは「魔女たちがモロコシの茎でベナンダンティたちを叩くのに対して、ベナンダンティたちはういきょうの束で応戦する」のと同様に、「戦い、遊戯をし、飛び跳ね、様々な動物の背にまたがる。」 ドン・ズガバリッツァはこのような魔術の話に関心を持ち、1575年の3月21日にチヴィダーレ・デル・フリウーリの聖フランチェスコ修士会における司教代理人のモンシニョール・ジャコポ・マラッコとコンベンツァル聖フランシスコ修道会のメンバーである審問官のフラ・ジュリオ・ダシスの前に、この状況をどう処理したらよいか、助言を与えてくれることを期待して、証人として現れた。彼はガスパルットを一緒に連れて行き、そしてガスパルットはすぐに異端審問官の前でベナンダンティ達が遊戯に参加した後にすることについてより多くの情報を提供した。ガスパルットによれば、「魔女や魔法使いや放浪者たち」は「きれいな水」を探しながら住民たちの家の前を通り、水を見つければそれを飲んだ。もし魔女たちがきれいな飲み水を全く見つけられなかったならば、彼らは地下室に行き、ワインの樽をすべてひっくり返してしまった。 ズガバリッツァは最初はこれらの出来事が実際に行われているというガスパルットの主張を信じていなかった。司祭の疑念に対して、ガスパルットは彼と異端審問官の両方を、次の彼らの旅におけるベナンダンティの集会に参加するようにいったが、もし名前を言ってしまったら、自分が「魔女にひどくぶたれる」かもしれないと言って、ガスパルットは同胞の名前を誰1人として言わなかった。それからしばらくして、復活祭明けの月曜日に、ズガバリッツァは信徒に向けてのミサを執り行うためにイアッシコを訪れた。そして儀式の後、彼をたたえるために開かれた祝宴のために地元の人々と一緒にとどまった。食事中や食事後、ズガバリッツァはもう1回ガスパルットと粉ひき屋のピエトロ・ロターロとともにベナンダンティの旅について議論をし、そしてその後に、他の自称ベナンダンティである、チヴィダーレのバッティスタ・モドゥーコの存在を知った。そしてモドゥーコは夜の儀式の間に何が起こっているかについての今までより多くの情報を提供した。最終的には、ズガバリッツァと異端審問官のジュリオ・ダシスはベナンダンティの調査を諦めることにした。というのも、後にカルロ・ギンズブルグが考えたところによると、おそらく彼らはベナンダンティたちの夜の戦いや魔女たちとの戦いはでまかせにすぎないと考えるようになったからである。
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