スロー出世~現役引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/03 23:41 UTC 版)
「大日ノ出崇揚」の記事における「スロー出世~現役引退」の解説
高校・大学時代の活躍から幕下付出資格を得たことで出世は早いものと思われていたが、右膝の故障によって幕下中位で相撲を取ることが続いていた。1996年7月場所では6戦全勝と好調を維持していたが、もう1人の6戦全勝が同部屋の広瀬山(後の十両・双筑波)だったため、同場所13日目に行われた7番相撲は星違いの後藤(後の関脇・栃乃洋)との対戦が組まれた。この取組に敗れ、広瀬山も敗れたことで全勝がいなくなり、1敗力士9人による優勝決定戦となった。西田山は優勝決定戦でも敗れて優勝を逃すなど、ここ一番での取組に弱かった(この場所の幕下優勝は、7番相撲で広瀬山を破った金作であった)。 その後は右膝の具合も良くなったことで幕下上位まで番付を挙げ、得意とする左四つからの上手投げで勝利を重ね、1997年1月場所において新十両昇進を果たした。十両昇進は初土俵から所要30場所であった。十両には定着したものの惜しいところで敗れて負け越す場合が多く、十両下位と上位を往復する生活が2年ほど続いた。1999年1月場所ではようやく自己最高位となる東十両筆頭まで番付を挙げ、この場所を8勝7敗と辛くも勝ち越して新入幕を決め、史上1位となる所要43場所での新入幕を果たした。 一時は幕内に定着していたが、内臓疾患によって2000年1月場所を最後に十両陥落、内臓疾患の病状が悪化したことで同年7月場所を休場した後、同年9月場所では幕下陥落となった。日常生活には支障が無いまで回復したものの、この場所を全休したことで相撲を続けるには無理があると判断され、同場所限りで現役を引退した。同年12月15日に都内のホテルで断髪式が行われ、日大時代の恩師である田中英壽が止め鋏を入れた。引退後は日本相撲協会に残らずに実業家へ転身した。
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