ジョー・ミーダー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/07 07:12 UTC 版)
「クヴェードリンブルク祭具盗難事件」の記事における「ジョー・ミーダー」の解説
1916年、ジョー・トム・ミーダーはアーカンソー州アーカデルフィア(英語版)にて、4人兄弟の末子として生を受けた。ミーダーが1歳のときに一家はテキサス州ホワイトワイト(英語版)に移り、父は工具や農機具の販売を手掛けるミーダー社(Meador Inc.)を創業した。1938年、ミーダーは北テキサス大学にて美術学科の学士号(bachelor of arts)を得る。卒業後はフランスのビアリッツに移り、さらに美術について学んだ。彼が美術に強い関心を抱いていた背景には、結婚するまでワシタ・バプテスト大学で美術学科の教員を務めていた母の影響があったとも言われている。1941年、ミーダーは真珠湾攻撃の2日後に陸軍への入隊を果たす。第87機甲野戦砲兵大隊に配属されたミーダーはノルマンディー侵攻に参加した後、フランスからドイツに至る戦線各地で戦った。彼は部隊前方で砲撃目標を観測する観測班の一員として勤務していた。 1945年4月19日、クヴェードリンブルクに到達した第87大隊は武器弾薬や無線機等が隠匿されていないか調査するための小部隊3個を編成し、ミーダー中尉もこの内の1つに配属された。記録によれば、ある酔った兵士が道を誤った折、坑道に隠されていたコレクションを発見したとされている。大隊はこれらを「ナチによる略奪品」と判断し、監視下に置いた。美術品について十分な教育を受けていたミーダーは、他の将兵よりもコレクションの価値を正しく把握していた。 何人かの兵士は、ミーダーが坑道に入った後に早足で立ち去るのを見たと証言している。彼はホワイトワイトの家族へ宛てた郵便物の中に、盗み出した品を紛れ込ませていたという。 ミーダーは終戦後の1946年に陸軍を除隊し、テキサス州ニューロンドンの学校に美術科教師として採用された。父が病気に倒れるとホワイトワイトの実家に戻り、兄ジャックとともにミーダー社の経営者となった。そのほか、ミーダーは自宅の裏に温室を3棟建て、蘭の栽培を行っていた。1960年に地元新聞が取材した際には、129品種6200株以上の蘭を栽培していた。地元の隣人や友人たちによれば、かつてのミーダーは友好的な青年だったが、復員後は秘密主義的かつ孤立しがちで、まるで別人のようだったという。 ミーダーの自宅には多数の骨董品や敷物、絵画などが飾られていたという。1980年2月1日、ミーダーはホワイトワイトの老人介護施設にて癌により死去した。
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