ジョンヘンリーとは? わかりやすく解説

ジョンヘンリー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/18 12:28 UTC 版)

ジョンヘンリー
2006年5月 ケンタッキー・ホース・パークにて
欧字表記 John Henry
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1975年3月9日
死没 2007年10月8日(32歳没)
Ole Bob Bowers
Once Double
母の父 Double Jay
生国 アメリカ合衆国
生産者 Golden Chance Farm Inc.
馬主 D.Lingo & C.Madere
→H.Snowden Jr.
→S.Rubin
→Dotsam Stable
調教師 Phil Marino(アメリカ
→H.Snowden Jr.(アメリカ)
→Robert A.Donato(アメリカ)
→Victor J.Nickerson(アメリカ)
→Ronald McAnally(アメリカ)
競走成績
生涯成績 83戦39勝
獲得賞金 659万7947ドル
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ジョンヘンリーJohn Henry1975年 - 2007年)は、アメリカ合衆国競走馬

高齢まで活躍し、6歳(1981年)と9歳(1984年)時にエクリプス賞年度代表馬に選ばれた。G1競走16勝の北米最多勝利記録を持つ。

馬名の由来はアフリカ系アメリカ人の庶民の英雄、ジョン・ヘンリーより。

生涯

誕生

ジョンヘンリーは1975年3月9日アメリカ合衆国ケンタッキー州にあるゴールデンチャンスファームで生まれた。幼少期のジョンヘンリーは身体が小さく脚は凹膝[1]気味で、気性の激しい馬であった。1976年1月にキーンランドで行われたセリ市でJ・キャラウェイに1100ドルで落札されたが脚部の状態が思わしくなかったことを嫌ったキャラウェイはジョンヘンリーを転売することにし、翌1977年1月のキーンランドのセリ市に出品、H・スノードンが2000ドルで落札した。

スノードンは気性の激しさを改善するためにジョンヘンリーを去勢し、気性の改善に成功したが、キャラウェイと同様脚部の状態が気にかかり、ルイジアナ州に住むマディアという名の知人に1万ドルで売却した。

ジョンヘンリーはマディアの家の近くにあるジェファーソンダウンズ競馬場の厩舎に預けられることになった。

競走生活

1977-1979年

ジョンヘンリーは1977年5月にジェファーソンダウンズ競馬場の未勝利戦でデビューした。デビュー戦を勝利で飾った後、年末まで10戦して2勝を挙げた。11月にルイジアナ州フェアグラウンズ競馬場のレースに出走するようになってからは勝利を挙げることができず、この傾向は年が明けてからも続いた。

1978年4月にキーンランド競馬場のレースで4着になった後、ジョンヘンリーはスノードンの所有馬2頭と交換される形で再びスノードンの所有馬となり、間もなく2万5000ドルでサム・ルービンに売却された。ルービンにとってジョンヘンリーは馬主(自身と妻のドロシーの名前を合わせた「ドットサム厩舎」の名義を使用)になって初めて所有した競走馬であった。ルービンへの売却後、ジョンヘンリーの成績は上向き始めた。特に芝のレースでの成績がよく、9月には重賞 (G3) のラウンドテーブルハンデキャップを勝利している。

1979年は11戦して4勝を挙げたが重賞を勝つことはできなかった。

1980年

ルービンは当初ジョンヘンリーの本拠地をベルモントパーク競馬場に置いていたが、1979年秋に西部のサンタアニタ競馬場へ移した。それと同時にジョンヘンリーの競走成績は上向き始め、1980年に入ると芝の2000m以上のレースを中心に重賞戦線で活躍するようになった。

1月から2月にかけてG2・G3を3連勝すると3月にはG1のサンルイレイステークスに出走し優勝。その後5月にかけてサンフアンカピストラーノインビテーショナルハンデキャップ、ハリウッドインビテーショナルハンデキャップと連勝しG1を3連勝した。

11月にもG1オークツリーインビテーショナルステークスを勝ち、G14勝、重賞7勝、通算12戦8勝の成績を収めたジョンヘンリーはこの年のシーズンにテンパランスヒル、スペクタキュラービッドに次ぐ額の賞金を獲得し、エクリプス賞最優秀芝コース牡馬に選出された。

1981年

1981年もジョンヘンリーの活躍は続いた。シーズン前半は西部で走りサンタアニタハンデキャップ、サンルイレイステークス、ハリウッドインビテーショナルハンデキャップとG1を3連勝。

6月のハリウッドゴールドカップハンデキャップステークスで4着に敗れた後東部へ転戦し、前年2着に敗れたG1ジョッキークラブゴールドカップステークスを勝つなど3連勝した後再び西部へ戻り、オークツリーインビテーショナルステークス連覇を達成した。ジョッキークラブゴールドカップステークス優勝の時点で収得賞金額は280万5310ドルとなり、スペクタキュラービッドが持っていた世界レコードを更新した。

この年の成績は10戦8勝、重賞8勝、G1 6勝で、エクリプス賞年度代表馬。最優秀古馬牡馬、最優秀芝コース牡馬に選出された。

1982-1983年

1982年、初戦のサンタアニタハンデキャップを繰り上がり優勝した後サンルイレイステークスで3着に敗れ、体調不良により半年あまり休養をとった。

10月に復帰し初戦のカールトンFバークハンデキャップで3着に敗れた後オークツリーインビテーショナルステークスに出走し、同レース3連覇を達成。

11月には日本へ遠征して第2回ジャパンカップに出走し、1番人気に支持されたが13着に敗れた。1983年は始動が7月と遅く、5戦2勝、重賞2勝、G1 1勝の成績に終わった。

1984年

1984年、サンタアニタハンデキャップとサンルイレイステークスで5着、3着と敗れた後、ジョンヘンリーは調子を取り戻した。5月6日にG3ゴールデンゲートハンデキャップをゴールデンゲートフィールズ競馬場の芝2200mのコースレコードを記録して優勝すると、9月にかけてG1を4勝する活躍を見せた。

10月にはニュージャージー州メドウランズ競馬場で行われたバランタインズスコッチクラシックに出走した。このレースは重賞ではなかったがターフクラシックの優勝馬が勝つと50万ドルのボーナスが支払われることになっており、同競馬場芝2200mのコースレコードを記録して優勝したジョンヘンリーはボーナス獲得に成功した。

バランタインズスコッチクラシック出走後、陣営は目標をブリーダーズカップターフに置いたが、調教中に右前脚に屈腱炎を発症し、出走を回避した。ブリーダーズカップターフには出走できなかったもののこの年の活躍は評価され、エクリプス賞年度代表馬および最優秀芝コース牡馬に選出された。

1985年

ジョンヘンリーは約半年間の療養を経て復帰へ向けて調教を開始した。しかし7月上旬に右前脚の屈腱炎が再発。獣医師から完治の見込みはないとの診断を受け、引退を余儀なくされた。

引退時の収得賞金は659万7947ドルに上り、アリシーバに破られるまで世界レコードであった。

競走馬引退後

競走馬を引退したジョンヘンリーを巡って多くの牧場や施設が引き取りに名乗りを挙げたが、同じせん馬のフォアゴーが繋養されていたケンタッキー州のホースパークで余生を送ることになった。

ジョンヘンリーは長生きをし、30歳の誕生日にはファンや関係者150人が集まり祝福された。

その後も元気に生活を送っていたものの、2007年秋頃から脱水症状などで体調を崩すようになり、2007年10月8日安楽死の措置がとられた。32歳であった。

評価

エクリプス賞

  • 1980年 - エクリプス賞最優秀芝馬
  • 1981年 - エクリプス賞年度代表馬、最優秀古馬、最優秀芝馬
  • 1983年 - エクリプス賞最優秀芝馬
  • 1984年 - エクリプス賞年度代表馬、最優秀芝馬

表彰

ほか、アーリントンパーク競馬場の一角にジョンヘンリーを讃える記念像が置かれている。

血統

血統表

ジョンヘンリー血統プリンスキロ系 / Bull Dog (Sir Gallahad) 4×4・5=15.63% Blue Larkspur5×4=9.38%) (血統表の出典)

Ole Bob Bowers
1963 鹿毛 アメリカ
父の父
Prince Blessed
1957 鹿毛 アメリカ
Princequillo Prince Rose
Cosquilla
Dog Blessed Bull Dog
Blessed Again
父の母
Blue Jeans
1950 鹿毛 アメリカ
Bull Lea Bull Dog
Rose Leaves
Blue Grass Blue Larkspur
Camelot

Once Double
1967 黒鹿毛 アメリカ
Double Jay
1944 黒鹿毛 アメリカ
Balladier Black Toney
Blue Warbler
Broomshot Whisk Broom
Centre Shot
母の母
Intent One
1955 栗毛 アメリカ
Intent War Relic
Liz F.
Dusty Legs Mahmoud
Dustemall F-No.8-c


近親馬

近親に活躍が目立つ馬は見られない。半妹(父ダストコマンダー)のアインダストは繁殖牝馬として日本へ導入されたが、産駒および子孫に活躍馬はいない。

脚注

  1. ^ 凹膝についてはJRA競走馬総合研究所 馬の用語辞典を参照。

参考文献

  • 原田俊治『新・世界の名馬』サラブレッド血統センター、1993年。ISBN 4-87900-032-9 

外部リンク


ジョン・ヘンリー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/30 07:11 UTC 版)

ウェストバージニア州サマーズ郡タルコットの町にあるジョン・ヘンリーの彫像

ジョン・ヘンリーJohn Henry)は、多くの歌、物語、演劇、小説で扱われているアフリカ系アメリカ人庶民英雄である。

伝説

ポール・バニヤンペコス・ビル、アイアン・ジョンなどの他の「大男」と同様に、ジョン・ヘンリーもまた19世紀の労働者階級のるつぼの中でのある特定の集団を代表する神話的な存在であった。彼の人生のもっとも一般的な物語では、ヘンリーは大きくて強い人として生まれた。彼は西部へ山を渡って鉄道を延長する、世紀半ばの動きの中で、最も素晴らしい「ハンマー使い」になった。物語を複雑にするのは、機械の力が獣の筋肉の力(人間と動物の両方)に取って代わり続け、鉄道の所有者が蒸気で動くハンマーを購入したことである。これは黒人労働者が行っていた仕事を機械にさせようという事である。彼と彼の仲間の職を確保するために、ジョン・ヘンリーは蒸気ハンマーとの対戦に挑戦した。ジョン・ヘンリーは勝利したが、この過程で彼は心臓麻痺を起こし死亡した。他の物語のバージョンでは、ジョン・ヘンリーの脳に血管が浮き出たというのもある。あるバージョンでは、彼は死なずに生き残っている。

現代の描写においては、ジョン・ヘンリーは鉄道のレールを固定するための犬釘をハンマーで打ち付けているようにしばしば描かれているが、より古いバージョンでは、鉄道のトンネルと切り渡しを掘削する過程の一部の、岩に穴を開けている彼を表現している。物語のほとんどすべてのバージョンでは、ジョン・ヘンリーは黒人で、アメリカの現代に入りつつある変化の時期の彼らの疎外化を代表し、すべてのアメリカの労働者階級にとっての庶民の英雄である。キャラクターは実在の人物に基づいたかどうかは分からないが、ヘンリーは労働者階級の重要なシンボルとなった。彼の物語は通常、伝統的な肉体労働の転覆が明白となった19世紀の技術の進化と戦う、無益さの手本の例証として見られる。労働運動の立場からは、会社が従業員の健康と幸福よりも、効率と生産に興味を持っている時に、由緒ある習慣の最も熟練した労働者でさえも取り残されてしまうという例証として伝説を解釈する人もいる。ジョン・ヘンリーは自らが蒸気ドリルよりも有能であることを立証したが、彼は死に至るまで自分を酷使し、どのみち機械へと置き換えられた。こうしてジョン・ヘンリーの伝説は、100年を優に越えて、アメリカの労働と神話の主要部分となっている。

音楽家でリサーチャーであるステファン・ウェイドによれば、ジョン・ヘンリーを題材に歌った人物で現存する最古の記録は、1924年のフィドリン・ジョン・カーソンの『ジョン・ヘンリー・ブルース』とされている。記録には残っていないが、それ以前からジョン・ヘンリーは歌の題材にされており、現在までにさまざまなバージョンが存在する[1]

史実

最強の男として生きていた時のジョン・ヘンリーに関する真実は、時間と神話によって曖昧にされているが、ひとつの伝説では、彼は1840年代にアラバマ州で生まれた奴隷で、ウェストバージニア州タルコットチェサピーク・アンド・オハイオ鉄道(C&O)沿いで、蒸気ハンマーとの有名な一戦を交えた、としている。競争が行われたかもしれないトンネルを越えたタルコットの南の高速道路沿いに、彫像と記念の額が置かれている。

鉄道史家のロイ・C・ロングは、C&O沿いに複数の「ビッグ・ベンド・トンネル」があることを見つけた。また、C&Oはこれらのトンネルが建設されていた当時、「ジョン・ヘンリー」という名前で呼ばれていた複数の黒人男性を雇った。彼は証拠書類をひとつも見つけられなかったが、人間と機械の競争が確かにウェストバージニア州タルコットの場所で起こったことを、その場所で、同時に、3つすべて(ジョン・ヘンリーと言う名の男、ビッグ・ベンドという名のトンネル、そして蒸気ドリル)が出現したという理由の事例証拠に基づいて信じている[2]

ウィリアム・アンド・メアリー大学の歴史学の助教授であるスコット・レイノルズ・ネルソンの著書「Steel Drivin' Man: John Henry, the Untold Story of an American Legend」は、1870年代、労働のためにC&O鉄道に監視人によって賃貸されていた、バージニア州囚人、ジョン・ウィリアム・ヘンリーは、伝説的なジョン・ヘンリーの基礎となったと主張している[3]

退職した化学教授で民俗学者のジョン・ガーストは、競争は1887年9月20日、アラバマ州リーズ近くの、コロンバス・アンド・ウェスタン鉄道(現在のノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道の一部)のクーサ山トンネルまたはオーク山トンネルで確かに起こったと主張した。1920年代にコンテストを目撃したと主張していたC・C・スペンサーの説明と一致している記録に基づいて、ジョン・ヘンリーは、その鉄道の技監の父、P・A・L・ダブニーの奴隷として1850年に生まれたヘンリーという男性であったかもしれない、とガーストは推測している[4]。リーズの町は、ジョン・ヘンリーの伝説にちなんで、バス・ハウス歴史博物館での展示と、毎年9月の第三土曜日に終わる一年に一度のフェスティバルの計画を立てている[5][6]

どの説も除外できるような証拠書類は全く現れていないが、タルコットとリーズの両方の町が、彼らの示唆した伝説との結びつきを宣伝と教育的な資料とイベントに使用している。毎年7月4日の後の週末、タルコットの町は「ジョン・ヘンリー・デイズ」として知られる祝賀を主催している。その週末は、多くの屋台、パレード、花火、そしてゴムのアヒルのレースが含まれている。

出典・脚注

  1. ^ 東『アメリカは歌う。』 p21
  2. ^ Long, Roy C. (1991). “Big Bend Times”. C&O History. 
  3. ^ Grimes, William. "Taking Swings at a Myth, With John Henry the Man", ニューヨーク・タイムス, Books section, October 18, 2006.
  4. ^ Garst, John (2002). “Chasing John Henry in Alabama and Mississippi: A Personal Memoir of Work in Progress”. Tributaries: Journal of the Alabama Folklife Association 5: 92–129. 
  5. ^ Thornton, William (September 3, 2006). “Leeds' plans for saluting Henry”. Birmingham News 
  6. ^ Clowers, Don (September 14, 2006). “John Henry - Leeds connection doesn't exist”. Leeds News 

参考文献

  • 東理夫『アメリカは歌う。――歌に秘められた、アメリカの謎』作品社、2010年。

外部リンク


ジョンヘンリー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 02:59 UTC 版)

ジョンヘンリーターフチャンピオンシップステークス」の記事における「ジョンヘンリー」の解説

ジョンヘンリー(John Henry)は1980年代前半アメリカ名馬である。ジョンヘンリーは1981年1984年アメリカ年度代表馬となり、1980年1981年1983年、1984年に最優秀馬に選出された。ジョンヘンリーは、1980年から1982年にかけて、本競走当時オークツリー招待ステークス)を3連覇している。 オークツリー競馬会サンタアニタパーク競馬場賃貸借契約2010年最後に切れたため、2011年競走ハリウッドパーク競馬場G2として行われた2012年には、本競走自体サンタアニタパーク競馬場戻ったが、オークツリー競馬会ハリウッドパーク競馬場競馬行ったため、競走名は「ジョンヘンリーターフチャンピオンシップステークスJohn Henry Turf Championship)」と改められた。

※この「ジョンヘンリー」の解説は、「ジョンヘンリーターフチャンピオンシップステークス」の解説の一部です。
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