ジューコフ赴任とレニングラード市街への正面攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:57 UTC 版)
「レニングラード包囲戦」の記事における「ジューコフ赴任とレニングラード市街への正面攻撃」の解説
規律の回復に定評のあるジューコフの赴任(9月13日)は、レニングラードの戦況を劇的に改善させた。ジューコフはレニングラード市内を6つの防衛セクターに分割すると、防御体系を組み直し、砲兵火力の支援を充実させた。砲兵火力の集中は目覚ましい成果をあげ、365ミリ砲一門で戦車35両、砲12門、一個歩兵大隊、弾薬列車一本を撃破した。次にジューコフは規律の回復に全力を注いだ。ヴォロシーロフの稚拙な指揮により、各部隊はバラバラに戦い、相次ぐ敗戦は士気を低下させ、許可なく防衛線を後退する兵士が相次いだ。ジューコフは許可なく防衛線を後退した兵士、将校、政治委員は即刻射殺すると布告。後退中だった各軍に反撃を命じ、拒否した指揮官は即座に更迭した。ジューコフが到着して数日後、ドイツ軍はレニングラード市街の攻略をめざして、市の近郊のプルコヴォ(レニングラード中心部から 17Km 現プルコヴォ空港がある一帯)等で大規模な攻撃を開始した。しかし、赤軍の頑強な抵抗のため防衛線を突破できなかった。一方、ドイツはモスクワ戦線への増援のため、北方軍集団の兵力の一部を引き抜いた。赤軍の抵抗による損失やモスクワ増援により戦力が低下したドイツ軍はレニングラードに対する方針を力による制圧から、包囲による飢餓作戦へと変更した。ジューコフはモスクワ防衛のために呼ばれ、10月7日にモスクワに戻った。レニングラード防衛を適切に組織したのはジューコフの偉大な功績だが、9月18日からドイツ軍の装甲部隊(第4装甲軍団)がモスクワ方面に転進し始めた代わりにドイツ軍歩兵がレニングラード周辺の包囲攻撃陣地構築に着手する姿が目撃されているにもかかわらず、同日オラニエンバウムの疲弊した第8軍にドイツ軍の攻撃を命ずるなど不要な正面攻撃を多用し多大な損害を出し封鎖の突破に支障をきたした。
※この「ジューコフ赴任とレニングラード市街への正面攻撃」の解説は、「レニングラード包囲戦」の解説の一部です。
「ジューコフ赴任とレニングラード市街への正面攻撃」を含む「レニングラード包囲戦」の記事については、「レニングラード包囲戦」の概要を参照ください。
- ジューコフ赴任とレニングラード市街への正面攻撃のページへのリンク