シャルル (プロヴァンス王)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/01 07:53 UTC 版)
シャルル Charles |
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プロヴァンス国王 | |
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在位 | 855年 - 863年 |
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出生 | 845年 |
死去 | 863年1月24日 プロヴァンス王国、リヨン、サン=ピエール=ノナン修道院 |
家名 | カロリング家 |
王朝 | カロリング朝 |
父親 | ロタール1世 |
母親 | エルマンガルド・ド・トゥール |
宗教 | カトリック教会 |
プロヴァンス王シャルル(Charles, 845年 - 863年1月24日)は、中部フランク王国が分割されて成立したプロヴァンスの王(在位:855年 - 863年)。中部フランク王ロタール1世とトゥール伯ユーグの娘エルマンガルドの間の三男である。
生涯
855年、父ロタール1世の死によりその遺領は三子の間で分割相続され、シャルルは南部ブルグントとプロヴァンスを継承した[1]。しかし病弱で、義叔父のヴィエンヌ伯ジェラール2世(母の姉妹と結婚)が摂政として実際の統治を行い、プロヴァンスに攻めてきたノルマン人を撃退している[2][3]。
863年、後継者なく死去。その遺領は二人の兄、皇帝ロドヴィコ2世とロタリンギア王ロタール2世との間で分割され、ヴィエンヌ、リヨン、グルノーブル司教管区はロタール2世が、アルル、エクス、アンブラン司教管区およびプロヴァンス王位はロドヴィコ2世が継承した[1][3]。
脚注
- ^ a b 瀬原義生 2012, p. 46
- ^ 根津由喜夫 2007, p. 171
- ^ a b 柴田 ほか 1995, p. 170
参考文献
- 瀬原義生『ドイツ中世前期の歴史像』文理閣、2012年。ISBN 978-4-89259-696-4。国立国会図書館書誌ID: 024004065 。
- 柴田三千雄 他『世界歴史大系』山川出版社〈フランス史1〉、1995年。
- 根津由喜夫「二人のビザンツ皇女の運命 : 『ジラール・ド・ルシヨン』を読み解く」『金沢大学文学部論集. 史学・考古学・地理学篇』第27号、金沢大学文学部、2007年3月、161-202頁、 CRID 1520290883810138112、 hdl:2297/3854、 ISSN 13424270。
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「シャルル (プロヴァンス王)」の例文・使い方・用例・文例
- シャルルマーニュの目的はまさに帝国時代のローマの栄光を取り戻すことにほかならなかった.
- シャルルマーニュ大帝の父によって創設されたフランク王朝の、または、フランク王朝に関する
- 751から987まで支配したシャルルマーニュ大帝の父親によって設立されたフランク王朝
- 9世紀にシャルルマーニュによって築かれ、今日ドイツ最大の港であるエルベ川沿いのドイツ北部の港湾都市
- フランス人の物理学者、シャルルの法則の立案者で、ゲイ・リュサックの法則を予期した(1746年−1823年)
- イタリア人の795年から816年までの教皇、800年にローマ人のシャルルマーニュ皇帝を王位につかせた(750年−816年)
- シャルルマーニュ大帝の3人目の息子で、フランスとドイツの王、神聖ローマ帝国の皇帝(778年−840年)
- フランクスの帝王で、教皇の影響力を擁護し、751年にカロリング王家の人王朝を設立したシャルルマーニュの父(714年−768年)
- ボイルシャルルの法則という,気体の体積の法則
- シャルルの法則という,気体の熱膨張率に関する法則
- 中山さんと辻さんは昨年7月,パリのシャルル・ド・ゴール空港で偶然初めて出会った。
- 一方,フランス大統領のシャルル・ド・ゴール(アンドレ・ペンヴルン)は,非課税のモナコに移転したフランス企業に課税するようモナコに迫る。
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