シダックス野球部監督
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2002年11月6日付で、当時社会人野球へ参加していたシダックス硬式野球部の監督兼ゼネラルマネージャーに就任した。同部は社会人野球の新興チームながら、志太勤会長(当時)の下で、1999年にビクトル・メサ(元キューバ代表)などを擁して第26回社会人野球日本選手権大会を制覇。志太は、球界を離れていた野村に監督職への就任を要請するとともに、キューバ代表の主力選手だったオレステス・キンデランやアントニオ・パチェコを入部させた。このため、野村は終生にわたって、志太を「(野球人としても社会人としても自分にとって)どん底の時代に手を差し伸べて下さった恩人」と慕っていた。 チームは、野村の監督就任1年目(2003年)に、第74回都市対抗野球大会で決勝に進出。三菱ふそうを相手に6回裏終了の時点で3点差を付けていたが、7回表に集中打・四死球・スクイズ成功などで一挙5点を奪われたあげく、1点差(4対5)で優勝を逃した。この逆転劇について、野村は監督退任後に「(6回裏までのリードで)『優勝していいのかな?』と思いながら(試合会場の東京ドームで)ベンチからネット裏をふと見たところ、(大会を主催している)日本野球連盟会長(当時)の山本英一郎が観戦している姿が目に留まった。その姿が気になったせいで、(7回表から)リリーフを送れば逃げ切れたのに、先発(当時のエースだった野間口貴彦)を続投させたら逆転負け。(試合中にもかかわらず)『優勝していいのかな?』などとバカなことを考えてしまったせいで、志太会長には悪いことをしてしまった。この経験は、『監督の迷いはチームに大きな影響を及ぼす。それだけに、(監督が野球のセオリーに沿った)正しい考えを持たないと、とんでもないことになる』という大きな教訓として、その後(楽天での監督生活)に生かされた」と述べている。この年には中日ドラゴンズで山田久志監督の退任が決まっていたため、大会後の報道では後任監督候補の1人に挙げられていたが、野村自身はシダックスに残留。中日の監督には落合博満が就任した。 楽天からの監督就任要請を受諾したことに伴って、シダックスの監督を退任することを2005年10月3日に発表。最後に指揮を執った第32回社会人野球日本選手権大会1回戦では、日本生命に1対2で惜敗した。その一方で、日本野球連盟は野村に対して、この年に社会人ベストナイン特別賞を授与している。 野村は後年、プロ(南海・ヤクルト・阪神)と社会人野球(シダックス)の双方での監督経験を踏まえて、「プロ野球とアマチュア野球では、給料のベースが全く違う。プロ野球では個人記録がベースになっているが、アマチュアでは本塁打を何本打とうが、何勝しようが給料はみんな同じだから、みんなの心が『チームの優勝のために頑張ろう』という方向にまとまりやすい。このことはいい勉強になった」と述べていた。 シダックスでは、野村の下でコーチを務めていた田中善則を硬式野球部の後任監督へ据えたものの、2006年限りで同部を解散。社会人野球でプレーを続ける意向を示した選手の移籍を認める一方で、部活動の一環として実施してきたK-Ball少年野球の支援に特化すべく、「K-Ball技術指導部」を新設している。なお、野村の監督在任中に在籍していた部員からは、野間口・武田勝・森福允彦など7人のNPB選手を輩出。その1人である中村真人外野手は、野村が監督を務める楽天へ2007年に入団したことを機に、野村の指導を再び受けていた。
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